<上野原駅>
前回の終点から街道歩き再開。
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10/8 8:33
<上野原駅>
前回の終点から街道歩き再開。
駅前の桂川に削られた河岸段丘。甲州街道は高台の上にあるため結構な登りから始まる。
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10/8 8:37
駅前の桂川に削られた河岸段丘。甲州街道は高台の上にあるため結構な登りから始まる。
<浅間神社>
北上し新町交差点より甲州街道に出る。上野原宿の入口には浅間神社が祀られている。
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10/8 8:45
<浅間神社>
北上し新町交差点より甲州街道に出る。上野原宿の入口には浅間神社が祀られている。
<旧大正館>
街道に面した牛倉神社参道の向かいに少し入ると現れる築100年(1924年〜)の旧映画館。
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10/8 8:50
<旧大正館>
街道に面した牛倉神社参道の向かいに少し入ると現れる築100年(1924年〜)の旧映画館。
前回寄ったばかりだけど牛倉神社にも参拝。
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10/8 8:50
前回寄ったばかりだけど牛倉神社にも参拝。
境内に榛名信仰の石碑がある。
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10/8 8:52
境内に榛名信仰の石碑がある。
<牛倉神社>
上野原宿の中心的存在でもあるお宮。市街地にありながらしっかりと社叢が保たれている。
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10/8 8:53
<牛倉神社>
上野原宿の中心的存在でもあるお宮。市街地にありながらしっかりと社叢が保たれている。
楠公の銅像は皇紀2600年(昭和16年)に近くの小学校に建てられたのを移設したもの。
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10/8 8:54
楠公の銅像は皇紀2600年(昭和16年)に近くの小学校に建てられたのを移設したもの。
<上野原宿>
上野原宿は一代建て替えられた建物が多い。
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10/8 8:55
<上野原宿>
上野原宿は一代建て替えられた建物が多い。
<上野原宿本陣跡>
264.2m水準点の北にある本陣跡。現在は立派な門だけが残る。
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10/8 9:00
<上野原宿本陣跡>
264.2m水準点の北にある本陣跡。現在は立派な門だけが残る。
旧街道は20号線の陸橋をくぐらず西の路地へ入る。
1
10/8 9:02
旧街道は20号線の陸橋をくぐらず西の路地へ入る。
<大乗妙典廻国供養塔>
全国六十六の国を巡り法華経を納めた行の達成を記念する塔が建っている。この地で結願したのか、はたまたここから出た行者か僧が成し遂げたのか。
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10/8 9:04
<大乗妙典廻国供養塔>
全国六十六の国を巡り法華経を納めた行の達成を記念する塔が建っている。この地で結願したのか、はたまたここから出た行者か僧が成し遂げたのか。
<木食白道上人加持水井碑>
寛政9年(1797年)に彫られた井戸の碑。木食白道が加持祈祷を行ったとか、水脈の在処を示したとか所説はあるが、丘の上にあった部落(この辺りでは集落の事を部落と呼ぶ)は水の確保に苦労をしたらしく、街道の運営も容易ではなかった事が想像できる。
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10/8 9:04
<木食白道上人加持水井碑>
寛政9年(1797年)に彫られた井戸の碑。木食白道が加持祈祷を行ったとか、水脈の在処を示したとか所説はあるが、丘の上にあった部落(この辺りでは集落の事を部落と呼ぶ)は水の確保に苦労をしたらしく、街道の運営も容易ではなかった事が想像できる。
耕作地に咲いていたイヌサフラン(と秋咲きスノーフレークとオオイヌノフグリ)
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10/8 9:04
耕作地に咲いていたイヌサフラン(と秋咲きスノーフレークとオオイヌノフグリ)
旧街道は鶴川に向けて緩く下っていく。
1
10/8 9:05
旧街道は鶴川に向けて緩く下っていく。
馬頭観世音。この小径は他にも道祖神などがあり路傍の石造物が多い。
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10/8 9:06
馬頭観世音。この小径は他にも道祖神などがあり路傍の石造物が多い。
上野原市内は登山でよく見かけるような道標が旧街道を案内してくれている。
1
10/8 9:07
上野原市内は登山でよく見かけるような道標が旧街道を案内してくれている。
Y字路を右手に入ると坂道はさらに傾斜を増していく。
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10/8 9:07
Y字路を右手に入ると坂道はさらに傾斜を増していく。
<鶴川入口歩道橋>
狭隘な道を下りて行くと歩道橋で国道20号線を渡る。ここは切通状になっているのでかつては山道だったのだろう。
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10/8 9:08
<鶴川入口歩道橋>
狭隘な道を下りて行くと歩道橋で国道20号線を渡る。ここは切通状になっているのでかつては山道だったのだろう。
渡った先に市設置の案内板がある。
1
10/8 9:10
渡った先に市設置の案内板がある。
県道30号をショートカットするように生活道が下りてゆく。これが
1
10/8 9:12
県道30号をショートカットするように生活道が下りてゆく。これが
ノコンギク
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10/8 9:12
ノコンギク
ナンテンハギ
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10/8 9:12
ナンテンハギ
ヒガンバナ
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10/8 9:14
ヒガンバナ
一度車道を挟んで急坂を下ると鶴川に出る。ここは甲州街道で唯一人の手による渡しが行われていた。これ以上北に行くと切り立った谷になるし、桂川も鶴川合流点より西は猿橋で見るような渓谷が連続する。上野原の台地までも高低差が大きく、ここも地味に難所であったことだろう。
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10/8 9:14
一度車道を挟んで急坂を下ると鶴川に出る。ここは甲州街道で唯一人の手による渡しが行われていた。これ以上北に行くと切り立った谷になるし、桂川も鶴川合流点より西は猿橋で見るような渓谷が連続する。上野原の台地までも高低差が大きく、ここも地味に難所であったことだろう。
橋を渡った先から鶴川宿が始まる。先の鶴川が増水した際に留まるために機能したようだ。
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10/8 9:15
橋を渡った先から鶴川宿が始まる。先の鶴川が増水した際に留まるために機能したようだ。
<鶴川神社>
街道に面した鶴川神社へ参拝。
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10/8 9:16
<鶴川神社>
街道に面した鶴川神社へ参拝。
鶴川宿を見下ろす位置に鎮座する神社。漆喰など装飾的な拝殿はさながら駅舎のよう。
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10/8 9:17
鶴川宿を見下ろす位置に鎮座する神社。漆喰など装飾的な拝殿はさながら駅舎のよう。
境内に旧街道時代に使われたという駒つなぎ石が移設されている。
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10/8 9:18
境内に旧街道時代に使われたという駒つなぎ石が移設されている。
イヌタデ
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10/8 9:19
イヌタデ
<上野山古墳?>
鶴川神社の背後にはちょっとした大きさの丘があり、頂上にお稲荷様が鎮座している。この塚自体いつのものかは不詳だが見るべきは周辺の積み石であろう。5世紀前後の古墳とする見方は市の発掘調査で否定されている。むしろ江戸時代の陶磁器が多数出ているという事で街道沿いに暮らした人々とのつながりを感じる。
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10/8 9:20
<上野山古墳?>
鶴川神社の背後にはちょっとした大きさの丘があり、頂上にお稲荷様が鎮座している。この塚自体いつのものかは不詳だが見るべきは周辺の積み石であろう。5世紀前後の古墳とする見方は市の発掘調査で否定されている。むしろ江戸時代の陶磁器が多数出ているという事で街道沿いに暮らした人々とのつながりを感じる。
センニンソウ
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10/8 9:22
センニンソウ
鶴川宿は旅籠こそないもののかつての屋号を軒先に掛けていて今も旧街道の雰囲気を残す。今では足湯なんてものもあり、もし旧街道時代に足湯があればさぞ人気が出ただろうと思いを馳せる。
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10/8 9:24
鶴川宿は旅籠こそないもののかつての屋号を軒先に掛けていて今も旧街道の雰囲気を残す。今では足湯なんてものもあり、もし旧街道時代に足湯があればさぞ人気が出ただろうと思いを馳せる。
<鶴川宿富田本陣跡>
いかにも本陣といったお屋敷が鶴川宿の最奥になる。ここを西に折れて県道を後にする。
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10/8 9:25
<鶴川宿富田本陣跡>
いかにも本陣といったお屋敷が鶴川宿の最奥になる。ここを西に折れて県道を後にする。
鶴川神社に抜ける小径の角には馬頭観音。
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10/8 9:26
鶴川神社に抜ける小径の角には馬頭観音。
本陣跡からきつい坂道を登り直す途中、鶴川宿入口の看板を見ながらS字カーブを曲がるとここにも馬頭観音などが街道を行く人を見守っている。
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10/8 9:32
本陣跡からきつい坂道を登り直す途中、鶴川宿入口の看板を見ながらS字カーブを曲がるとここにも馬頭観音などが街道を行く人を見守っている。
<山王神社>
さらに背後には小さなお宮があった。山王さまなので参道脇には狛犬ではなく夫婦の神猿像が鎮座。
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10/8 9:32
<山王神社>
さらに背後には小さなお宮があった。山王さまなので参道脇には狛犬ではなく夫婦の神猿像が鎮座。
開削された坂道を歩く。当時は山中だったのだろう。
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10/8 9:34
開削された坂道を歩く。当時は山中だったのだろう。
切通を抜けると中央道の側道に出る。正面に見える鳶ヶ崎橋を渡った先が大椚の集落となる。
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10/8 9:35
切通を抜けると中央道の側道に出る。正面に見える鳶ヶ崎橋を渡った先が大椚の集落となる。
<大椚一里塚>
橋の先も坂道が続く。しばらく登って傾斜が落ち着きを見せたところに十九里目となる一里塚跡の碑が建てられていた。元々の塚はここより東に100mほどの位置にあったらしい。
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10/8 9:39
<大椚一里塚>
橋の先も坂道が続く。しばらく登って傾斜が落ち着きを見せたところに十九里目となる一里塚跡の碑が建てられていた。元々の塚はここより東に100mほどの位置にあったらしい。
詳細不明。鍊達道人遺蹟と彫られている。
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10/8 9:42
詳細不明。鍊達道人遺蹟と彫られている。
廿三夜塔。大椚は間宿で街道は狭く、古い石造物の多くが民家の庭先にある。
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10/8 9:42
廿三夜塔。大椚は間宿で街道は狭く、古い石造物の多くが民家の庭先にある。
石垣の上には念仏塔。
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10/8 9:43
石垣の上には念仏塔。
火袋を抜かれた秋葉燈の前には「大椚宿発祥の地」と書かれた道標が。地図と照らし合わせてみるとたしかに集落の中心付近に位置している。
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10/8 9:45
火袋を抜かれた秋葉燈の前には「大椚宿発祥の地」と書かれた道標が。地図と照らし合わせてみるとたしかに集落の中心付近に位置している。
石碑などを見つつ緩やかに登っていくと南側に吾妻神社の大きな杉のご神木が現れる。昔は境内にクヌギが立っていてそこから大椚といったらしい。
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10/8 9:47
石碑などを見つつ緩やかに登っていくと南側に吾妻神社の大きな杉のご神木が現れる。昔は境内にクヌギが立っていてそこから大椚といったらしい。
先ほどの廿三夜塔とほとんど離れていないのにまた別の石塔がある。
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10/8 9:47
先ほどの廿三夜塔とほとんど離れていないのにまた別の石塔がある。
<吾妻神社>
創建由緒は不明。先の鶴川神社とつくりがどことなく似ている。
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10/8 9:47
<吾妻神社>
創建由緒は不明。先の鶴川神社とつくりがどことなく似ている。
<大椚観音堂>
吾妻神社の境内に建つ。元は不動院行満寺があり、郡内三十三観音の二十四番札所となっている。解説板に「いづるより いるそとなきや長峰の しょうじせやの大くぬぎ堂」の御詠歌が書かれていた。長峰とは先ほど中央道を渡った鳶ヶ崎橋辺りからこの先の野田尻宿を過ぎて扇山の麓になる矢坪地区辺りまでを指す。
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10/8 9:48
<大椚観音堂>
吾妻神社の境内に建つ。元は不動院行満寺があり、郡内三十三観音の二十四番札所となっている。解説板に「いづるより いるそとなきや長峰の しょうじせやの大くぬぎ堂」の御詠歌が書かれていた。長峰とは先ほど中央道を渡った鳶ヶ崎橋辺りからこの先の野田尻宿を過ぎて扇山の麓になる矢坪地区辺りまでを指す。
お堂に安置された大日如来と千手観世音菩薩の坐像。金箔が剥がれむしろ立体感が増している。
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10/8 9:48
お堂に安置された大日如来と千手観世音菩薩の坐像。金箔が剥がれむしろ立体感が増している。
参道脇に並ぶ石仏群。
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10/8 9:49
参道脇に並ぶ石仏群。
クサギ(実)
1
10/8 9:49
クサギ(実)
シオン?
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10/8 9:50
シオン?
中央道の先に雨降山・権現山へと続くなだらかな稜線を見る。
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10/8 9:53
中央道の先に雨降山・権現山へと続くなだらかな稜線を見る。
<長峰砦跡>
中央道の側道を西へ進むと不自然な所に公園が設けられている。一帯は武田氏と北条氏の争った古戦場だったが見ての通りの中央道の開通で砦跡はほぼ消滅している。ここはその記念公園という位置付けになるらしい。発掘調査で長峰の辺りの街道は道幅が狭く、今以上に起伏の多い険路だった事も分かっている。
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10/8 9:56
<長峰砦跡>
中央道の側道を西へ進むと不自然な所に公園が設けられている。一帯は武田氏と北条氏の争った古戦場だったが見ての通りの中央道の開通で砦跡はほぼ消滅している。ここはその記念公園という位置付けになるらしい。発掘調査で長峰の辺りの街道は道幅が狭く、今以上に起伏の多い険路だった事も分かっている。
公園には古池や〜で始まる芭蕉句碑も建てられている。句とは直接の関係はないようだが、こちらもまた中央道の工事で埋められてしまった殿の井戸と呼ばれる涸れない泉や長峰の池・濁り池があり、水が豊富だった事に由来するものと思われる。中でも長峰の池は富士八湖の一つとして数えられていたという説がある。
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10/8 9:57
公園には古池や〜で始まる芭蕉句碑も建てられている。句とは直接の関係はないようだが、こちらもまた中央道の工事で埋められてしまった殿の井戸と呼ばれる涸れない泉や長峰の池・濁り池があり、水が豊富だった事に由来するものと思われる。中でも長峰の池は富士八湖の一つとして数えられていたという説がある。
新栗原橋で再び中央道を跨ぐ。指導標はここで街道が2方向に分かれていて直進が本来のルートに近いらしい。
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10/8 9:59
新栗原橋で再び中央道を跨ぐ。指導標はここで街道が2方向に分かれていて直進が本来のルートに近いらしい。
地区の中央付近で古道と合流する。鍵型に折れた古道は談合坂SAの傍を通るので現代の”街道”と対比するのも良かったかもしれない。
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10/8 10:05
地区の中央付近で古道と合流する。鍵型に折れた古道は談合坂SAの傍を通るので現代の”街道”と対比するのも良かったかもしれない。
<野田尻宿>
野田尻の宿場跡は見通しの良い通りになっていて余裕のある道幅も実に心地よい。残念ながら明治時代の火災で焼失してしまっているものの、この街道然とした家並みに当時の面影を感じることができる。
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10/8 10:06
<野田尻宿>
野田尻の宿場跡は見通しの良い通りになっていて余裕のある道幅も実に心地よい。残念ながら明治時代の火災で焼失してしまっているものの、この街道然とした家並みに当時の面影を感じることができる。
<明治天皇御小休所址碑(宮田本陣跡)>
さらに街道を進み駐在所や郵便局など、地区の中心部まで来ると明治天皇御小休所址碑が建っていた。
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10/8 10:08
<明治天皇御小休所址碑(宮田本陣跡)>
さらに街道を進み駐在所や郵便局など、地区の中心部まで来ると明治天皇御小休所址碑が建っていた。
本陣跡は行幸の後、大火に消えたままで空き地になったまま。
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10/8 10:08
本陣跡は行幸の後、大火に消えたままで空き地になったまま。
郵便局にも旧甲州街道野田尻宿の文字が。
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10/8 10:08
郵便局にも旧甲州街道野田尻宿の文字が。
<犬嶋神社>
街道に面した犬嶋社へ参拝。このお宮もまた由緒不明だが明治まで本山修験宗も入っていたという。
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10/8 10:08
<犬嶋神社>
街道に面した犬嶋社へ参拝。このお宮もまた由緒不明だが明治まで本山修験宗も入っていたという。
境内に大きな神楽殿を備えていてちょっとした舞も奉納できそうな広さがある。
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10/8 10:09
境内に大きな神楽殿を備えていてちょっとした舞も奉納できそうな広さがある。
そしてもう一棟、拝殿に並ぶ形で神楽殿と思われる社殿があるのが大きな特徴である。何か催し物の準備をされている方がいたが忙しそうだったので話は聞けなかった。
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10/8 10:10
そしてもう一棟、拝殿に並ぶ形で神楽殿と思われる社殿があるのが大きな特徴である。何か催し物の準備をされている方がいたが忙しそうだったので話は聞けなかった。
<西光寺>
創建824年と郡内でも最古級の寺院。向かいにはお玉ヶ井碑が建つ。このお玉ヶ井は珍しくハッピーエンドの物語になっているが、これまた中央道の工事によって消滅してしまっている。
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10/8 10:12
<西光寺>
創建824年と郡内でも最古級の寺院。向かいにはお玉ヶ井碑が建つ。このお玉ヶ井は珍しくハッピーエンドの物語になっているが、これまた中央道の工事によって消滅してしまっている。
西光寺の北には天満宮が鎮座。
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10/8 10:13
西光寺の北には天満宮が鎮座。
寺を過ぎた先で甲州街道の指導標を見て北久保橋を渡る。他の橋に比べ装飾的なのは街道であった事を意識してだろうか。
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10/8 10:15
寺を過ぎた先で甲州街道の指導標を見て北久保橋を渡る。他の橋に比べ装飾的なのは街道であった事を意識してだろうか。
西に扇山前衛の犬目丸が。高速道路ができる前は山中で眺めなどなかった事だろう。
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10/8 10:15
西に扇山前衛の犬目丸が。高速道路ができる前は山中で眺めなどなかった事だろう。
渡った先は突然地道になる。100mちょっとだが在りし日の街道歩きの雰囲気を味わえる。
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10/8 10:17
渡った先は突然地道になる。100mちょっとだが在りし日の街道歩きの雰囲気を味わえる。
県道30号との合流点に富士講の碑が建てられていた。「獄 大先達白倉宝行」と読める。
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10/8 10:17
県道30号との合流点に富士講の碑が建てられていた。「獄 大先達白倉宝行」と読める。
<荻野一里塚跡>
富士講碑から先、擁壁のある小丘脇を歩いていくがこの丘の上部が二十里目の荻野一里塚跡になるらしい。テープが張られていたので探索は諦めた。
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10/8 10:19
<荻野一里塚跡>
富士講碑から先、擁壁のある小丘脇を歩いていくがこの丘の上部が二十里目の荻野一里塚跡になるらしい。テープが張られていたので探索は諦めた。
談合坂SA上りの手前、矢坪橋で中央道を渡り直す。
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10/8 10:26
談合坂SA上りの手前、矢坪橋で中央道を渡り直す。
<大乗妙典日本廻国供養塔>
上野原にもあったものと同じ碑が建っている。
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10/8 10:27
<大乗妙典日本廻国供養塔>
上野原にもあったものと同じ碑が建っている。
<矢坪坂>
すぐ先の擁壁上の小径が矢坪坂と呼ばれる隘路の入口になる。「車両の通り抜けできません」とあるが民家も見えているので生活道くらいだろうと思っていたが甘かった。
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10/8 10:27
<矢坪坂>
すぐ先の擁壁上の小径が矢坪坂と呼ばれる隘路の入口になる。「車両の通り抜けできません」とあるが民家も見えているので生活道くらいだろうと思っていたが甘かった。
耕作地の上手を抜けていく。先に民家もありまだこの辺りは歩きやすい。
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10/8 10:28
耕作地の上手を抜けていく。先に民家もありまだこの辺りは歩きやすい。
武甕槌神社の鳥居が現れたのでここにもお参りすることに。矢坪坂は武田と北条の激戦地で、武田方の小山田勢に300もの死傷者が出たという。武甕槌神社はその死者を祀ったのが始まりだと伝えられている。
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10/8 10:30
武甕槌神社の鳥居が現れたのでここにもお参りすることに。矢坪坂は武田と北条の激戦地で、武田方の小山田勢に300もの死傷者が出たという。武甕槌神社はその死者を祀ったのが始まりだと伝えられている。
鳥居をくぐった瞬間から強烈な坂道が続く。
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10/8 10:30
鳥居をくぐった瞬間から強烈な坂道が続く。
コンクリートの急坂を登っていくと石祠が現れるがこれが武甕槌神社ではないだろう。すぐに水道施設が現れ山道に変わる。
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10/8 10:31
コンクリートの急坂を登っていくと石祠が現れるがこれが武甕槌神社ではないだろう。すぐに水道施設が現れ山道に変わる。
<武甕槌神社>
その後もぐんぐんと高度を上げていき、このままでは犬目丸まで登ってしまうのではと不安になった頃社殿が現れた。地形図に目を落とすと矢坪坂の始点から100mも高度を上げていた。
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10/8 10:34
<武甕槌神社>
その後もぐんぐんと高度を上げていき、このままでは犬目丸まで登ってしまうのではと不安になった頃社殿が現れた。地形図に目を落とすと矢坪坂の始点から100mも高度を上げていた。
この辺りの地域に多い派手な彩色の本殿。参道を含め近年全体的に改修されたと見え大事業だったであろうことが偲ばれる。
1
10/8 10:35
この辺りの地域に多い派手な彩色の本殿。参道を含め近年全体的に改修されたと見え大事業だったであろうことが偲ばれる。
鳥居まで引き返し旧街道と思われる山道を行く。一部は民家の敷地のようで恐縮する。
1
10/8 10:39
鳥居まで引き返し旧街道と思われる山道を行く。一部は民家の敷地のようで恐縮する。
山中に大穴を石垣で塞いだような場所があった。炭焼き窯跡かな。
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10/8 10:39
山中に大穴を石垣で塞いだような場所があった。炭焼き窯跡かな。
三猿の彫られた庚申塔を見て一旦山を出る。
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10/8 10:40
三猿の彫られた庚申塔を見て一旦山を出る。
道は擁壁上のコンクリに変わり桂川沿いの山並みが開けた。あいにくの天気なので富士山は期待できず。
1
10/8 10:40
道は擁壁上のコンクリに変わり桂川沿いの山並みが開けた。あいにくの天気なので富士山は期待できず。
一度山を抜けて気が抜けたのかそのまま県道に下りてしまう。慌てて引き返すが旧街道は農地の上の草付きで判り辛い。
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10/8 10:42
一度山を抜けて気が抜けたのかそのまま県道に下りてしまう。慌てて引き返すが旧街道は農地の上の草付きで判り辛い。
少し先に金比羅さまがあるらしいが夏に茂った野草や先のタケミカヅチさまの参道に萎えてここは諦めてしまった。ここはいずれ扇山登山と絡めて訪れたい。
1
10/8 10:43
少し先に金比羅さまがあるらしいが夏に茂った野草や先のタケミカヅチさまの参道に萎えてここは諦めてしまった。ここはいずれ扇山登山と絡めて訪れたい。
満開のヤマハギ
1
10/8 10:44
満開のヤマハギ
矢坪坂の新田集落側は遊歩道と呼ぶにはやや荒れた部類に入る。フェンスの途切れた先に細い谷を跨ぐ箇所があり、座頭転がしと呼ばれ難所の一つになっている。人が通るのでやっとな山道のため明治天皇行幸の際は集落側に道が作られた。現在の県道30号線である。
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10/8 10:45
矢坪坂の新田集落側は遊歩道と呼ぶにはやや荒れた部類に入る。フェンスの途切れた先に細い谷を跨ぐ箇所があり、座頭転がしと呼ばれ難所の一つになっている。人が通るのでやっとな山道のため明治天皇行幸の際は集落側に道が作られた。現在の県道30号線である。
「座頭転がし」をやり過ごした先の斜面の上から街道を見下ろすように石祠が鎮座していた。立て札には山王様とある。
1
10/8 10:45
「座頭転がし」をやり過ごした先の斜面の上から街道を見下ろすように石祠が鎮座していた。立て札には山王様とある。
荻ノ丸からの登山道と道を合わせ新田集落に抜け出し一安心。
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10/8 10:48
荻ノ丸からの登山道と道を合わせ新田集落に抜け出し一安心。
矢坪坂の終点には表情豊かな石仏が見守っていた。
1
10/8 10:48
矢坪坂の終点には表情豊かな石仏が見守っていた。
<陣屋跡>
新田は宿場町ではないものの、富士山の眺めが良いという事で尾張藩の殿様の定宿となっていた。もっとも尾張藩が主に参勤交代で使用していたのは自領の多い中山道だったし、八王子宿より西は実際にはあまり良い宿はなかったらしい。下に〜下に〜で知られる尾張藩が贔屓にしたというのは驚きである。
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10/8 10:51
<陣屋跡>
新田は宿場町ではないものの、富士山の眺めが良いという事で尾張藩の殿様の定宿となっていた。もっとも尾張藩が主に参勤交代で使用していたのは自領の多い中山道だったし、八王子宿より西は実際にはあまり良い宿はなかったらしい。下に〜下に〜で知られる尾張藩が贔屓にしたというのは驚きである。
その証拠とばかりに集落には蔵がいくつか残る。
1
10/8 10:51
その証拠とばかりに集落には蔵がいくつか残る。
念仏石経塔と庚申塔。小仏峠を過ぎてから石造物が一気に増えた。
1
10/8 10:51
念仏石経塔と庚申塔。小仏峠を過ぎてから石造物が一気に増えた。
祭神不明の石祠を見て県道30号線に復帰。
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10/8 10:52
祭神不明の石祠を見て県道30号線に復帰。
合流地点は安達野のバス停や旧上野原町設置の指導標などがある。
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10/8 10:52
合流地点は安達野のバス停や旧上野原町設置の指導標などがある。
犬目宿へ。地図に目を落とすと犬目から新田までは概ね一直線になっている。
1
10/8 10:53
犬目宿へ。地図に目を落とすと犬目から新田までは概ね一直線になっている。
<犬目宿>
安達野地区を通過するとそのまま犬目宿となる。野田尻宿によく似た雰囲気の高台の集落である。ただ、古い家屋の多くは昭和後期の火災で失われてしまっている。
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10/8 10:57
<犬目宿>
安達野地区を通過するとそのまま犬目宿となる。野田尻宿によく似た雰囲気の高台の集落である。ただ、古い家屋の多くは昭和後期の火災で失われてしまっている。
犬目宿碑。この4軒隣には初期の甲州一揆を指導した犬目宿兵助の生家跡が、裏手の墓地には兵助の墓がある。
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10/8 10:57
犬目宿碑。この4軒隣には初期の甲州一揆を指導した犬目宿兵助の生家跡が、裏手の墓地には兵助の墓がある。
<笹屋脇本陣跡>
明治天皇は脇本陣跡で休憩されたらしい。
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10/8 10:58
<笹屋脇本陣跡>
明治天皇は脇本陣跡で休憩されたらしい。
脇本陣跡の先から犬嶋神社へ長い参道が延びている。さっきのタケミカヅチさまほどではないけどここもかなりきつい坂道。
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10/8 10:59
脇本陣跡の先から犬嶋神社へ長い参道が延びている。さっきのタケミカヅチさまほどではないけどここもかなりきつい坂道。
<犬嶋神社>
拝殿は50mも高度を上げた杉林の山中にある。社号は野田尻と同じだが祭神は異なる。「犬」嶋というので犬目の地名に何か関わりがあるのかと勘繰りたくなるが別段そうでもないらしい。
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10/8 11:01
<犬嶋神社>
拝殿は50mも高度を上げた杉林の山中にある。社号は野田尻と同じだが祭神は異なる。「犬」嶋というので犬目の地名に何か関わりがあるのかと勘繰りたくなるが別段そうでもないらしい。
<寶勝寺>
県道へ取って返し、「空」と彫られた丸石のオブジェを見て再び登り返した先に甲斐八十八霊場第六番の寶勝寺がある。
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10/8 11:07
<寶勝寺>
県道へ取って返し、「空」と彫られた丸石のオブジェを見て再び登り返した先に甲斐八十八霊場第六番の寶勝寺がある。
境内の犬目慈母観音像がある辺りから北斎や広重が富士を描いたそうだ。晴れていればここから真正面に富士山が捉えられる。
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10/8 11:08
境内の犬目慈母観音像がある辺りから北斎や広重が富士を描いたそうだ。晴れていればここから真正面に富士山が捉えられる。
もう少しだけ登り坂は続く。ここにきてようやく甲州街道の案内図の北が上を向くようになった。
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10/8 11:12
もう少しだけ登り坂は続く。ここにきてようやく甲州街道の案内図の北が上を向くようになった。
寶勝寺を出るとしばらく林道のような道になり、最初の大カーブの手前で白馬不動への参道入口が現れる。扇山への登山口の一つでもある。
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10/8 11:12
寶勝寺を出るとしばらく林道のような道になり、最初の大カーブの手前で白馬不動への参道入口が現れる。扇山への登山口の一つでもある。
白馬(?)に跨っているとされるお不動様。聖武天皇の命を受けこの先の滝で行基が供養を行い、諸国の疫病を収めたといわれている。
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10/8 11:12
白馬(?)に跨っているとされるお不動様。聖武天皇の命を受けこの先の滝で行基が供養を行い、諸国の疫病を収めたといわれている。
君恋温泉跡のある集落を過ぎてお不動様の石碑を見たときコースを間違えたことに気付く。本来は先の大カーブの後に君恋坂と呼ばれる山道に取り付いて君恋温泉跡に出なければいけなかった。
君恋という情緒あふれる地名はヤマトタケルとオトタチバナの話に関わりがあるらしい。今日歩いてきた大椚の辺りには弟橘媛を祀った神社があったし、条件が合えば弟橘媛が身を沈めたといわれる東京湾(浦賀水道)が望めるのだろう。
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10/8 11:19
君恋温泉跡のある集落を過ぎてお不動様の石碑を見たときコースを間違えたことに気付く。本来は先の大カーブの後に君恋坂と呼ばれる山道に取り付いて君恋温泉跡に出なければいけなかった。
君恋という情緒あふれる地名はヤマトタケルとオトタチバナの話に関わりがあるらしい。今日歩いてきた大椚の辺りには弟橘媛を祀った神社があったし、条件が合えば弟橘媛が身を沈めたといわれる東京湾(浦賀水道)が望めるのだろう。
<恋塚一里塚>
江戸よりニ十一里。南塚の片側のみだが原形を残した塚らしい一里塚を見ることができる。
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10/8 11:19
<恋塚一里塚>
江戸よりニ十一里。南塚の片側のみだが原形を残した塚らしい一里塚を見ることができる。
<山住神社>
馬宿に入る手前に山の神様が鎮座。
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10/8 11:22
<山住神社>
馬宿に入る手前に山の神様が鎮座。
境内にまとめられた複数の石仏の中、背の高い庚申塔が存在感を放つ。
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10/8 11:22
境内にまとめられた複数の石仏の中、背の高い庚申塔が存在感を放つ。
神社の向かいには聖徳太子塔が立つ。きつかった登り坂もこの辺りまで。大月市との市境から鳥沢宿(鳥沢駅)までは下りになる。
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10/8 11:24
神社の向かいには聖徳太子塔が立つ。きつかった登り坂もこの辺りまで。大月市との市境から鳥沢宿(鳥沢駅)までは下りになる。
ツリフネソウ
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10/8 11:29
ツリフネソウ
大カーブを過ぎて山谷集落に差し掛かった所で真新しい馬頭観世音を見て馬宿を飛ばしてしまった事に気付く。聖徳太子塔を見た後、山住神社に向き直って斜面の集落に入るつもりだったのだがバリルートの入口探しに気を取られて30号を進んでしまった。
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10/8 11:32
大カーブを過ぎて山谷集落に差し掛かった所で真新しい馬頭観世音を見て馬宿を飛ばしてしまった事に気付く。聖徳太子塔を見た後、山住神社に向き直って斜面の集落に入るつもりだったのだがバリルートの入口探しに気を取られて30号を進んでしまった。
富浜公民館山谷分館の向かい、県道の一段上にある擁壁沿いの行き止まりに木祠や石仏が並ぶ。
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10/8 11:32
富浜公民館山谷分館の向かい、県道の一段上にある擁壁沿いの行き止まりに木祠や石仏が並ぶ。
山谷の停留所がある坂で折り返すようにして一気に下る。
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10/8 11:33
山谷の停留所がある坂で折り返すようにして一気に下る。
勢い付いて次のヘアピンまで下ってしまったがここも右手の林の中を行く道が旧道になる。それにしても勾配がきつい。西から江戸へ登る際は小仏峠越えに匹敵する難所だっただろう。
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10/8 11:37
勢い付いて次のヘアピンまで下ってしまったがここも右手の林の中を行く道が旧道になる。それにしても勾配がきつい。西から江戸へ登る際は小仏峠越えに匹敵する難所だっただろう。
次の旧道は大月エコの里から続く野道。H字型に設けられた連絡道を伝い県道から進入する。
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10/8 11:40
次の旧道は大月エコの里から続く野道。H字型に設けられた連絡道を伝い県道から進入する。
当時はもっと山道だったのであろう草地を気持ちよく下っていく。犬目の辺りでは目線の高さにいた高畑山がいつの間にか大きい。
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10/8 11:40
当時はもっと山道だったのであろう草地を気持ちよく下っていく。犬目の辺りでは目線の高さにいた高畑山がいつの間にか大きい。
旧道から中野地区に入った所にも石仏群が並ぶ。
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10/8 11:45
旧道から中野地区に入った所にも石仏群が並ぶ。
以降は国道20号へ出るまで道なり。
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10/8 11:48
以降は国道20号へ出るまで道なり。
石仏群を見て下鳥沢宿跡のある国道20号線に合流する。
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10/8 11:51
石仏群を見て下鳥沢宿跡のある国道20号線に合流する。
<下鳥沢宿>
ここから笹子峠入口までは概ね国道沿いの道となる。
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10/8 11:52
<下鳥沢宿>
ここから笹子峠入口までは概ね国道沿いの道となる。
国道に入り200mほど進んだ所で北側にひっそりと下鳥沢宿の碑が立つ。
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10/8 11:54
国道に入り200mほど進んだ所で北側にひっそりと下鳥沢宿の碑が立つ。
鳥沢には庇を深く取った古い家屋が点在し、1kmほどの直線区間に宿場町の名残をいくつも感じられる。
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10/8 11:55
鳥沢には庇を深く取った古い家屋が点在し、1kmほどの直線区間に宿場町の名残をいくつも感じられる。
<福地八幡神社>
街道から北の小高い丘に鎮座する。由緒によると創建は9世紀、扇山(当時は扇ヶ峰と呼んだ)の頂上にあったものが遷座されたらしい。隣の百蔵山は山火事を避けるため山頂のお宮は下ろされているがこちらも同じような理由からだろうか。
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10/8 11:57
<福地八幡神社>
街道から北の小高い丘に鎮座する。由緒によると創建は9世紀、扇山(当時は扇ヶ峰と呼んだ)の頂上にあったものが遷座されたらしい。隣の百蔵山は山火事を避けるため山頂のお宮は下ろされているがこちらも同じような理由からだろうか。
本殿脇には街道最大級といわれる神輿が祭の日を静かに待っていた。
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10/8 11:58
本殿脇には街道最大級といわれる神輿が祭の日を静かに待っていた。
家内安全・子孫繁栄の神様ということで陣内には夫婦石が祀られている。その神徳は街道一だとか。
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10/8 11:59
家内安全・子孫繁栄の神様ということで陣内には夫婦石が祀られている。その神徳は街道一だとか。
<鳥沢一里塚跡>
江戸よりニ十二里目。鳥沢駅前の交差点東50mほどの所にある。文字は掠れ、住宅地にぽつねんと立っているので注意して歩かないと通り過ぎてしまう。当然、周囲に塚らしいものも見当たらない。
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10/8 12:04
<鳥沢一里塚跡>
江戸よりニ十二里目。鳥沢駅前の交差点東50mほどの所にある。文字は掠れ、住宅地にぽつねんと立っているので注意して歩かないと通り過ぎてしまう。当然、周囲に塚らしいものも見当たらない。
<上鳥沢宿・旅籠叶屋跡>
鳥沢駅より西側は上鳥沢宿となる。この辺りも明治の大火で焼けてしまったらしいが、気抜きという屋根の上の造りに養蚕を行っていた時の名残を見ることができる。ちなみに近辺の家屋の玄関先には街道があった頃の屋号が掛けられている。
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10/8 12:05
<上鳥沢宿・旅籠叶屋跡>
鳥沢駅より西側は上鳥沢宿となる。この辺りも明治の大火で焼けてしまったらしいが、気抜きという屋根の上の造りに養蚕を行っていた時の名残を見ることができる。ちなみに近辺の家屋の玄関先には街道があった頃の屋号が掛けられている。
<福地権現神社>
鳥沢駅の次の交差点より南に少し入ると中央本線の手前に塚状の土地がある。安易な断定はできないが恋塚一里塚と雰囲気はよく似ている。上部は公園を兼ねた境内になっていて大小のお宮の他、庚申供養と彫られた灯篭の柱らしい石造物などが残されている。福地明神・福寿明神とも。
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10/8 12:10
<福地権現神社>
鳥沢駅の次の交差点より南に少し入ると中央本線の手前に塚状の土地がある。安易な断定はできないが恋塚一里塚と雰囲気はよく似ている。上部は公園を兼ねた境内になっていて大小のお宮の他、庚申供養と彫られた灯篭の柱らしい石造物などが残されている。福地明神・福寿明神とも。
<上鳥沢宿・問屋場跡>
20号線に戻るとすぐ先は問屋場跡。
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10/8 12:13
<上鳥沢宿・問屋場跡>
20号線に戻るとすぐ先は問屋場跡。
<明治天皇駐蹕地碑>
コンビニを過ぎて少し歩いた北側、一帯にあったという旧井上本陣は影も形もなく、明治天皇の車を止めた石碑と上鳥沢宿の標識だけが立っている。
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10/8 12:14
<明治天皇駐蹕地碑>
コンビニを過ぎて少し歩いた北側、一帯にあったという旧井上本陣は影も形もなく、明治天皇の車を止めた石碑と上鳥沢宿の標識だけが立っている。
<諏訪神社>
上鳥沢宿の端にあたる地に鎮座。甲州らしい華麗な社殿を見ることができる。
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10/8 12:15
<諏訪神社>
上鳥沢宿の端にあたる地に鎮座。甲州らしい華麗な社殿を見ることができる。
こちらも庚申塔や小祠が並ぶ。
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10/8 12:16
こちらも庚申塔や小祠が並ぶ。
その諏訪神社の西側より国道を逸れて旧道に入る。地図を見ると国道南側は急崖になっていて、旧道はあたかも横吹沢を徒渉する登山道のように谷を沿ったカーブになっている。上鳥沢宿の先はすぐに山道に入っていたのだろう。
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10/8 12:17
その諏訪神社の西側より国道を逸れて旧道に入る。地図を見ると国道南側は急崖になっていて、旧道はあたかも横吹沢を徒渉する登山道のように谷を沿ったカーブになっている。上鳥沢宿の先はすぐに山道に入っていたのだろう。
横吹沢の傍には馬頭観音が街道を見守っていた。
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10/8 12:18
横吹沢の傍には馬頭観音が街道を見守っていた。
横吹団地入口の停留所でまた国道に復帰。
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10/8 12:21
横吹団地入口の停留所でまた国道に復帰。
<八ツ沢発電所施設第3号水路橋>
次の小向停留所の先でまた旧街道は北側へ入るのだがその先は藪の行き止まりになっているらしい。そのため100年以上稼動している煉瓦アーチの水路橋まで進み様子を探ると確かに藪っぽい山道が家屋の裏手から続いていた。
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10/8 12:29
<八ツ沢発電所施設第3号水路橋>
次の小向停留所の先でまた旧街道は北側へ入るのだがその先は藪の行き止まりになっているらしい。そのため100年以上稼動している煉瓦アーチの水路橋まで進み様子を探ると確かに藪っぽい山道が家屋の裏手から続いていた。
実際の旧道は国道脇の住宅地を縫うような隘路らしいがしばらくは国道沿いに進んだ。道中見掛けた東町自治会館脇のかなり狭いスペースには日蓮宗の題目塔が並び甲州らしさを感じる。
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10/8 12:36
実際の旧道は国道脇の住宅地を縫うような隘路らしいがしばらくは国道沿いに進んだ。道中見掛けた東町自治会館脇のかなり狭いスペースには日蓮宗の題目塔が並び甲州らしさを感じる。
そばにはお稲荷様も。
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10/8 12:36
そばにはお稲荷様も。
新猿橋手前の路地を西へ。
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10/8 12:38
新猿橋手前の路地を西へ。
旧街道に入ってすぐの場所にある石祠。「大菩薩」と読める木札が祀られていた。南西を向いていたので浅間社かと思ったのだけど。
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10/8 12:38
旧街道に入ってすぐの場所にある石祠。「大菩薩」と読める木札が祀られていた。南西を向いていたので浅間社かと思ったのだけど。
名勝猿橋へは車道から階段道で下りて行く。橋の南北には芭蕉句碑がある。
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10/8 12:40
名勝猿橋へは車道から階段道で下りて行く。橋の南北には芭蕉句碑がある。
猿橋より桂川の渓谷を眺める。ここは桂川の最も狭くなる地点で、急流に削られた断崖が見所。かなりの高度感がある。
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10/8 12:40
猿橋より桂川の渓谷を眺める。ここは桂川の最も狭くなる地点で、急流に削られた断崖が見所。かなりの高度感がある。
<猿橋>
深い渓谷に橋脚を下すのが難しいため崖から生やしたような刎ね木で橋桁を支える独特の構造をしている。その形が猿が支えあって橋を架けているように見えるため猿橋と呼ばれ、日本三奇橋の一つに数えられている。現在の橋梁は1984年に復元されたもの。
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10/8 12:42
<猿橋>
深い渓谷に橋脚を下すのが難しいため崖から生やしたような刎ね木で橋桁を支える独特の構造をしている。その形が猿が支えあって橋を架けているように見えるため猿橋と呼ばれ、日本三奇橋の一つに数えられている。現在の橋梁は1984年に復元されたもの。
橋の南詰に建つ明治天皇御召換所阯碑。
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10/8 12:42
橋の南詰に建つ明治天皇御召換所阯碑。
山王宮の傍らには大岩に「猿橋記」がびっしりと彫りこまれている。似たような碑文は甲府の東にある酒折宮にもみられる。
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10/8 12:43
山王宮の傍らには大岩に「猿橋記」がびっしりと彫りこまれている。似たような碑文は甲府の東にある酒折宮にもみられる。
<猿橋宿>
猿橋を渡り国道20号に出る辺りからがかつての猿橋宿になる。
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10/8 12:43
<猿橋宿>
猿橋を渡り国道20号に出る辺りからがかつての猿橋宿になる。
かつては芝居小屋などもあった活気ある宿場町だったらしいのだけどこの辺りは地元の古いお店が並ぶばかり。本陣の場所も判らず、20号を走っていてもいつも寂しいなと思うばかりで、この先にある酒屋くらいしか利用したことがない。
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10/8 12:45
かつては芝居小屋などもあった活気ある宿場町だったらしいのだけどこの辺りは地元の古いお店が並ぶばかり。本陣の場所も判らず、20号を走っていてもいつも寂しいなと思うばかりで、この先にある酒屋くらいしか利用したことがない。
街道沿いには背の高い馬頭観音像と交通安全を祈願した碑が並ぶ。他にも集められた石仏が何体も。
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10/8 12:50
街道沿いには背の高い馬頭観音像と交通安全を祈願した碑が並ぶ。他にも集められた石仏が何体も。
こちらにも鮮やかなヒガンバナ。
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10/8 12:51
こちらにも鮮やかなヒガンバナ。
<円行寺>
猿橋駅北の寺院。街道から見ると住宅地にうずもれるように建っている。表には髭題目、山梨に入ったので日蓮宗の寺院が増え始める。
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10/8 12:54
<円行寺>
猿橋駅北の寺院。街道から見ると住宅地にうずもれるように建っている。表には髭題目、山梨に入ったので日蓮宗の寺院が増え始める。
ニ十三夜塔も建つ。
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10/8 12:54
ニ十三夜塔も建つ。
<三嶋大明神>
円行寺の数軒先に堂々鎮座。三嶋大社から勧請したものと思われるが立派な社殿にも拘わらず祭神等不明。甲州らしい本殿の派手な装飾も見所。
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10/8 12:54
<三嶋大明神>
円行寺の数軒先に堂々鎮座。三嶋大社から勧請したものと思われるが立派な社殿にも拘わらず祭神等不明。甲州らしい本殿の派手な装飾も見所。
<阿弥陀寺>
桂川に沿って街道は南にカーブする。その起点にもう一軒寺院がある。
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10/8 12:56
<阿弥陀寺>
桂川に沿って街道は南にカーブする。その起点にもう一軒寺院がある。
阿弥陀寺の向かいには青面金剛と彫られた庚申塔。
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10/8 12:57
阿弥陀寺の向かいには青面金剛と彫られた庚申塔。
<殿上一里塚跡>
そして寺の入口脇に立てられている木柱が一里塚跡を示す碑。文字が消えてしまっていてそれと気付かず行ったり来たりしてしまった。これで江戸よりニ十三里目。
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10/8 12:58
<殿上一里塚跡>
そして寺の入口脇に立てられている木柱が一里塚跡を示す碑。文字が消えてしまっていてそれと気付かず行ったり来たりしてしまった。これで江戸よりニ十三里目。
カーブの途中から岩殿山が姿を見せる。猿橋以西はまた川幅が出て広い河岸段丘の地形となり、全体に眺めが良い。
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10/8 12:59
カーブの途中から岩殿山が姿を見せる。猿橋以西はまた川幅が出て広い河岸段丘の地形となり、全体に眺めが良い。
菊花山を正面に見て下段の終宅地へ。旧街道はここから桂川のそばまで下りるという説もあるが今回は斜めに下りて行く道へ。
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10/8 12:59
菊花山を正面に見て下段の終宅地へ。旧街道はここから桂川のそばまで下りるという説もあるが今回は斜めに下りて行く道へ。
住宅地を抜けていくとちょうど集落の中央あたりで庚申塔を見付けた。庚申塔などは街道の道標代わりだったという。もちろん工事等で移されたという可能性もあるけど。
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10/8 13:03
住宅地を抜けていくとちょうど集落の中央あたりで庚申塔を見付けた。庚申塔などは街道の道標代わりだったという。もちろん工事等で移されたという可能性もあるけど。
<東京電力駒橋発電所>
街道は駒橋発電所を横切るように続いている。入口付近に展示されているのは初期のドイツ製タービン。
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10/8 13:05
<東京電力駒橋発電所>
街道は駒橋発電所を横切るように続いている。入口付近に展示されているのは初期のドイツ製タービン。
南の駒橋御前山からは送水管が迫る。
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10/8 13:06
南の駒橋御前山からは送水管が迫る。
施設脇に設置されたハイキングの指導標が次の駒橋宿を案内していた。
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10/8 13:08
施設脇に設置されたハイキングの指導標が次の駒橋宿を案内していた。
<第五甲州街道踏切>
歩行者用の細い小径を上がり中央本線を渡る。入口からは通り抜けられそうに見えず行き過ぎるところだった。踏切名がここが甲州街道であった事を示している。
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10/8 13:09
<第五甲州街道踏切>
歩行者用の細い小径を上がり中央本線を渡る。入口からは通り抜けられそうに見えず行き過ぎるところだった。踏切名がここが甲州街道であった事を示している。
国道にしてまたすぐに南の路地へ。ここから駒橋宿に入る。
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10/8 13:10
国道にしてまたすぐに南の路地へ。ここから駒橋宿に入る。
<駒橋宿>
本陣も脇本陣もないが通りの雰囲気は旧街道そのもの。旅籠も4軒あったというが大月・猿橋がすぐそばだったのであまり需要はなかったのかもしれない。
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10/8 13:12
<駒橋宿>
本陣も脇本陣もないが通りの雰囲気は旧街道そのもの。旅籠も4軒あったというが大月・猿橋がすぐそばだったのであまり需要はなかったのかもしれない。
<厄王大権現>
駒橋御前山の中腹に鎮座する厄王院の本宮にあたる。狛犬の阿形(左)脇にある岩は終戦間際の空襲の折、爆風で桂川からここまで飛んできたという。幸いにして境内に落ちたため周辺の民家に被害はなかったとして平和祈願の石と呼ばれ厄王大権現とともに崇められている。
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10/8 13:12
<厄王大権現>
駒橋御前山の中腹に鎮座する厄王院の本宮にあたる。狛犬の阿形(左)脇にある岩は終戦間際の空襲の折、爆風で桂川からここまで飛んできたという。幸いにして境内に落ちたため周辺の民家に被害はなかったとして平和祈願の石と呼ばれ厄王大権現とともに崇められている。
境内に浅間社。
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10/8 13:13
境内に浅間社。
岩殿山は鏡岩がよく見える。
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10/8 13:13
岩殿山は鏡岩がよく見える。
内陣。神仏習合というよりは修験のお宮。
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10/8 13:14
内陣。神仏習合というよりは修験のお宮。
厄王大権現を後にし国道に復帰。かつては旅籠だったのであろう建物が1軒だけ残っている。
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10/8 13:17
厄王大権現を後にし国道に復帰。かつては旅籠だったのであろう建物が1軒だけ残っている。
高月橋入口の信号より一本東のY字路よりまた旧街道へ。
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10/8 13:19
高月橋入口の信号より一本東のY字路よりまた旧街道へ。
駅前の飲食店が立ち並ぶ路地を歩く。この辺りは既に大月宿にあたるが旧街道を思わせるような建物はなく、どちらかというと昭和レトロな雰囲気が漂う。
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10/8 13:24
駅前の飲食店が立ち並ぶ路地を歩く。この辺りは既に大月宿にあたるが旧街道を思わせるような建物はなく、どちらかというと昭和レトロな雰囲気が漂う。
<大月駅>
そのまま駅舎前に出る。まだ天気は持ちそうなので続きを行く事にする。
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10/8 13:25
<大月駅>
そのまま駅舎前に出る。まだ天気は持ちそうなので続きを行く事にする。
<大月宿>
大月宿の標識は駅のロータリーの一角にひっそりとあった。
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10/8 13:28
<大月宿>
大月宿の標識は駅のロータリーの一角にひっそりとあった。
駅ロータリーを西側から。中央奥の路地が旧街道。岩殿山は街道歩きの良い目印になった事だろう。
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10/8 13:29
駅ロータリーを西側から。中央奥の路地が旧街道。岩殿山は街道歩きの良い目印になった事だろう。
駅西側は旧街道を意識してかタイル張り。午前中の北久保橋を思い出す。
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10/8 13:30
駅西側は旧街道を意識してかタイル張り。午前中の北久保橋を思い出す。
市役所の手前で20号に復帰。
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10/8 13:31
市役所の手前で20号に復帰。
<大月宿脇本陣跡>
市役所の先で512号線へ入るがほんの少し通り過ぎた所に「明治天皇お召換所阯」と彫られた碑がある。ここが実質的な富士詣と甲州街道の分岐点だったのだろう。
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10/8 13:33
<大月宿脇本陣跡>
市役所の先で512号線へ入るがほんの少し通り過ぎた所に「明治天皇お召換所阯」と彫られた碑がある。ここが実質的な富士詣と甲州街道の分岐点だったのだろう。
<新大月橋>
脇本陣跡から北に向かい、富士急行線、中央本線と陸橋で跨いだら中央線沿いに西へ折れる。
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10/8 13:36
<新大月橋>
脇本陣跡から北に向かい、富士急行線、中央本線と陸橋で跨いだら中央線沿いに西へ折れる。
ここは桂川と笹子川の合流点の傍を通り、車道・鉄道いずれの道も川面よりもかなり高い所を渡る。当時は橋がしばしば流されたという。
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10/8 13:36
ここは桂川と笹子川の合流点の傍を通り、車道・鉄道いずれの道も川面よりもかなり高い所を渡る。当時は橋がしばしば流されたという。
<下花咲一里塚跡>
新大月橋を渡ると初狩の手前まではほぼ道なり。大月橋を渡ってきた国道20号と合流して2分ほどで南の中央線側に石仏が集められた広場がある。奥の頭の丸い石造物は芭蕉句碑。「しはらくは花のうへなる月夜かな」
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10/8 13:41
<下花咲一里塚跡>
新大月橋を渡ると初狩の手前まではほぼ道なり。大月橋を渡ってきた国道20号と合流して2分ほどで南の中央線側に石仏が集められた広場がある。奥の頭の丸い石造物は芭蕉句碑。「しはらくは花のうへなる月夜かな」
南側は塚が残っているそうだが全体的に車道より一段高くなっている事と荒れている事から塚跡も判別し辛い。この解説板の後ろがそうらしいのだけど。江戸よりニ十四里、いよいよ大台の100kmまであと一里である。
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10/8 13:41
南側は塚が残っているそうだが全体的に車道より一段高くなっている事と荒れている事から塚跡も判別し辛い。この解説板の後ろがそうらしいのだけど。江戸よりニ十四里、いよいよ大台の100kmまであと一里である。
今回は未訪問だが駒橋宿の東にある関場の石仏群に匹敵する数の石仏がここに集められている。
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10/8 13:41
今回は未訪問だが駒橋宿の東にある関場の石仏群に匹敵する数の石仏がここに集められている。
先ほどからちらちらと写りこんでいたキンモクセイ。
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10/8 13:41
先ほどからちらちらと写りこんでいたキンモクセイ。
<下花咲本陣跡 星野家住宅>
一里塚を過ぎて西へ歩いていくと大きな建物が見えてくる。重要文化財に指定された本陣の見学は予約が必要。「明治天皇花咲御小休所」の碑が建つ。旅籠は22軒に及び、下花咲は月後半が担当だったという。対して上花咲宿は古い建物はなく、街道の雰囲気は薄い。
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10/8 13:45
<下花咲本陣跡 星野家住宅>
一里塚を過ぎて西へ歩いていくと大きな建物が見えてくる。重要文化財に指定された本陣の見学は予約が必要。「明治天皇花咲御小休所」の碑が建つ。旅籠は22軒に及び、下花咲は月後半が担当だったという。対して上花咲宿は古い建物はなく、街道の雰囲気は薄い。
<稲村神社>
街道より奥まった笹子川のそばに鎮座。
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10/8 13:46
<稲村神社>
街道より奥まった笹子川のそばに鎮座。
創建は807年といわれるが詳しいことはあまり分からない。同号の神社が街道沿いに3社あり、いずれもスサノオを祀る。当社は令和元年に改築されモダンな社殿になった。
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10/8 13:47
創建は807年といわれるが詳しいことはあまり分からない。同号の神社が街道沿いに3社あり、いずれもスサノオを祀る。当社は令和元年に改築されモダンな社殿になった。
本殿のすぐ後ろには笹子川が流れ大きな音を立てている。この後しばらくは国道とともに進む。正しくは旧道が一部残っているが中央道や中央本線の建設で途中で行き止まり、または廃道になっているので黙々と現街道を歩いた。
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10/8 13:47
本殿のすぐ後ろには笹子川が流れ大きな音を立てている。この後しばらくは国道とともに進む。正しくは旧道が一部残っているが中央道や中央本線の建設で途中で行き止まり、または廃道になっているので黙々と現街道を歩いた。
<親鸞聖人舊蹟大布号碑>
大月警察署を過ぎ、真木交差点の一角に親鸞聖人と読める碑がひっそりと建てられていた。東にある善福寺が親鸞聖人の遊化で浄土真宗に改宗したほか、そこで親鸞が南無阿弥陀仏と書いた布(大布の名号)が飛び去った地が光り輝いたことから名号堂が建てられたという逸話が残っている。どうやらこの碑はその名号堂を案内する道標らしい。
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10/8 14:08
<親鸞聖人舊蹟大布号碑>
大月警察署を過ぎ、真木交差点の一角に親鸞聖人と読める碑がひっそりと建てられていた。東にある善福寺が親鸞聖人の遊化で浄土真宗に改宗したほか、そこで親鸞が南無阿弥陀仏と書いた布(大布の名号)が飛び去った地が光り輝いたことから名号堂が建てられたという逸話が残っている。どうやらこの碑はその名号堂を案内する道標らしい。
<真木諏訪神社>
国道沿いに北へ鋭く登る階段を追っていくと社殿が見えてくる。
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10/8 14:11
<真木諏訪神社>
国道沿いに北へ鋭く登る階段を追っていくと社殿が見えてくる。
境内社に古峯社と秋葉社が祀られている。火伏神社と呼ぶのは珍しい。
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10/8 14:12
境内社に古峯社と秋葉社が祀られている。火伏神社と呼ぶのは珍しい。
そして本殿の覆屋も変わっている。大屋根を備えた金属製の覆屋は郡内、特に甲州街道沿いに多く見られるが、正面から神紋が見えるよう本殿前面に大きな仕切りが設けられているのは稀。
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10/8 14:12
そして本殿の覆屋も変わっている。大屋根を備えた金属製の覆屋は郡内、特に甲州街道沿いに多く見られるが、正面から神紋が見えるよう本殿前面に大きな仕切りが設けられているのは稀。
本殿の彫刻は郡内随一。25名もの大工が携わったという。大月市の文化財に指定されている。
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10/8 14:13
本殿の彫刻は郡内随一。25名もの大工が携わったという。大月市の文化財に指定されている。
真木川を越えると笹子の急峻な山並みが広がる。
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10/8 14:18
真木川を越えると笹子の急峻な山並みが広がる。
最初の源氏橋で笹子川を渡る。桂川に比べとても穏やかな流れだ。
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10/8 14:19
最初の源氏橋で笹子川を渡る。桂川に比べとても穏やかな流れだ。
高川山の砕石場入口手前で西に折れて中央本線と並走するように細い道を行く。
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10/8 14:22
高川山の砕石場入口手前で西に折れて中央本線と並走するように細い道を行く。
ノコンギク
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10/8 14:24
ノコンギク
ヤマハッカ
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10/8 14:25
ヤマハッカ
写真中央から登ってきた。丸山の一里塚と呼ばれた権現山は写真右手に入れればあるはずだが立入禁止になっていて中は確認せず。
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10/8 14:27
写真中央から登ってきた。丸山の一里塚と呼ばれた権現山は写真右手に入れればあるはずだが立入禁止になっていて中は確認せず。
旧道を抜けていくと踏切の手前に石仏などが並べられていた。鉄道も砕石場もない時代は山道を抜けて下初狩宿に至る入口だったのだろう。
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10/8 14:28
旧道を抜けていくと踏切の手前に石仏などが並べられていた。鉄道も砕石場もない時代は山道を抜けて下初狩宿に至る入口だったのだろう。
<第七甲州街道踏切>
源氏橋では中央本線の上を跨いだが西側は踏切になっている。ここも甲州街道の名が付いている。
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10/8 14:29
<第七甲州街道踏切>
源氏橋では中央本線の上を跨いだが西側は踏切になっている。ここも甲州街道の名が付いている。
踏切の先には聖護院道興歌碑と下初狩宿の標識が並ぶ。
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10/8 14:30
踏切の先には聖護院道興歌碑と下初狩宿の標識が並ぶ。
<下初狩宿>
国道へ合流すると宿場らしい町並みになる。写真の切妻二階建ての民家より四軒先が下初狩宿本陣跡の奥脇家住宅。その先で南へ曲がると初狩駅となり、今も昔も初狩の中心部だったことが判る。
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10/8 14:31
<下初狩宿>
国道へ合流すると宿場らしい町並みになる。写真の切妻二階建ての民家より四軒先が下初狩宿本陣跡の奥脇家住宅。その先で南へ曲がると初狩駅となり、今も昔も初狩の中心部だったことが判る。
本陣跡の近くには二十三夜塔と常夜燈。甲州街道ではおなじみの光景のはずがしばらくぶりだった。
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10/8 14:33
本陣跡の近くには二十三夜塔と常夜燈。甲州街道ではおなじみの光景のはずがしばらくぶりだった。
<中初狩宿>
駅前を過ぎ、鶴ヶ鳥屋山より注ぐ宮川を越えてしばらくすると中初狩宿に入る。下初狩宿との合宿で上初狩宿は存在しない。
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10/8 14:39
<中初狩宿>
駅前を過ぎ、鶴ヶ鳥屋山より注ぐ宮川を越えてしばらくすると中初狩宿に入る。下初狩宿との合宿で上初狩宿は存在しない。
タカサゴユリ
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10/8 14:41
タカサゴユリ
<中初狩宿小林本陣跡>
街道が北西へカーブを始める手前に一際大きな切妻住宅がある。中初狩宿も旅籠とみられる住宅や門を残した家屋があり街道らしさを感じられるが、本陣跡はやや寂れた印象を受ける。
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10/8 14:42
<中初狩宿小林本陣跡>
街道が北西へカーブを始める手前に一際大きな切妻住宅がある。中初狩宿も旅籠とみられる住宅や門を残した家屋があり街道らしさを感じられるが、本陣跡はやや寂れた印象を受ける。
明治天皇御小休遺跡と彫られた碑が建つ。
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10/8 14:42
明治天皇御小休遺跡と彫られた碑が建つ。
カーブの先の石垣上に月待塔や題目塔、秋葉燈などが集められていた。この辺りが中初狩宿の端になるのだろうか。
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10/8 14:47
カーブの先の石垣上に月待塔や題目塔、秋葉燈などが集められていた。この辺りが中初狩宿の端になるのだろうか。
初狩を過ぎると笹子雁ヶ腹摺山や滝子山といった名峰の存在感が強くなってくる。
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10/8 14:49
初狩を過ぎると笹子雁ヶ腹摺山や滝子山といった名峰の存在感が強くなってくる。
船石橋で笹子川を渡る。
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10/8 14:50
船石橋で笹子川を渡る。
中央本線と交差する辺りは滝子山から派生する支尾根が笹子川に迫り国道がぐっと狭まり、穏やかな川面を見せていた笹子川も俄かに渓谷の様相を呈してくる。同時に道は傾斜を増し、歩道は藪で通行困難と現代の街道旅行者には厳しい道になっている。
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10/8 14:56
中央本線と交差する辺りは滝子山から派生する支尾根が笹子川に迫り国道がぐっと狭まり、穏やかな川面を見せていた笹子川も俄かに渓谷の様相を呈してくる。同時に道は傾斜を増し、歩道は藪で通行困難と現代の街道旅行者には厳しい道になっている。
次の白野宿へ入る前に笹子川のカーブの先から滝子山の寂悄尾根に至る登山道に少しだけ寄り道をする。道が濡れているのは雨のせいではなく滝子川があふれているため。
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10/8 14:59
次の白野宿へ入る前に笹子川のカーブの先から滝子山の寂悄尾根に至る登山道に少しだけ寄り道をする。道が濡れているのは雨のせいではなく滝子川があふれているため。
中央本線のガード下はちょっとした滝壺も。
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10/8 15:00
中央本線のガード下はちょっとした滝壺も。
<白野一里塚跡>
中央本線より100mほど北に進むとちょっとした広場があり一里塚跡を示す木杭や真新しい双体道祖神などがある。本来の旧街道は先ほどの国道が狭まった辺りから北に入り、中央道沿いに山道をトラバースするルートだったようだ。これにて江戸よりニ十六里。
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10/8 15:01
<白野一里塚跡>
中央本線より100mほど北に進むとちょっとした広場があり一里塚跡を示す木杭や真新しい双体道祖神などがある。本来の旧街道は先ほどの国道が狭まった辺りから北に入り、中央道沿いに山道をトラバースするルートだったようだ。これにて江戸よりニ十六里。
国道に引き返し、中央本線寄りの住宅地に入る。
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10/8 15:02
国道に引き返し、中央本線寄りの住宅地に入る。
<白野宿>
笹子川と西の大鹿川、東の滝子川に囲まれた小さな集落が白野宿で旅籠も4軒と大きくない。続く阿弥陀宿と黒野田宿とで合宿を組み、”上初狩”を形成していた。
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10/8 15:04
<白野宿>
笹子川と西の大鹿川、東の滝子川に囲まれた小さな集落が白野宿で旅籠も4軒と大きくない。続く阿弥陀宿と黒野田宿とで合宿を組み、”上初狩”を形成していた。
宿場跡の標識以外にも解説板が欲しいところ。
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10/8 15:05
宿場跡の標識以外にも解説板が欲しいところ。
<宝林寺>
立派な楼門を構えているが柵が立てられていて参拝できず。「白野山」の山号が読める。
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10/8 15:07
<宝林寺>
立派な楼門を構えているが柵が立てられていて参拝できず。「白野山」の山号が読める。
<子神社>
白野宿は短く、入口から10分もしないうちに出口になる。端にあたる土地に鎮座しているのが大国主命を祀る子神社。現在の社殿は中央道の建設で移設新築されたもののため、これまで見てきたような派手な本殿ではない。明治40年の大水害の際、この神社のおかげで白野宿は難を逃れたという。お寺や神社などが全体に一段高い所に設けられているのはそうした理由があっての事だろう。
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10/8 15:09
<子神社>
白野宿は短く、入口から10分もしないうちに出口になる。端にあたる土地に鎮座しているのが大国主命を祀る子神社。現在の社殿は中央道の建設で移設新築されたもののため、これまで見てきたような派手な本殿ではない。明治40年の大水害の際、この神社のおかげで白野宿は難を逃れたという。お寺や神社などが全体に一段高い所に設けられているのはそうした理由があっての事だろう。
旧街道は一旦国道へ合流し、すぐ先の原入口停留所よりまた北の小径に入り中央本線のガードをくぐる。
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10/8 15:12
旧街道は一旦国道へ合流し、すぐ先の原入口停留所よりまた北の小径に入り中央本線のガードをくぐる。
通りに万霊塔があったので北へ辿ってみる。
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10/8 15:16
通りに万霊塔があったので北へ辿ってみる。
<白光院跡>
途中、石仏などを見ながら登っていくが寺院などはなく私有地に出てしまった。畑の中に秋葉塔があったのは収穫。
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10/8 15:17
<白光院跡>
途中、石仏などを見ながら登っていくが寺院などはなく私有地に出てしまった。畑の中に秋葉塔があったのは収穫。
<親鸞聖人念仏供養塚>
ここにも親鸞が登場する。およしという女性が夫の浮気に嫉妬し池に身を投げた末、毒蛇に身を変えしばしば人に害を与えるようになった。これを鎮めるべく聖人が南無阿弥陀仏と名号を書いた石を池に投げ入れると毒蛇はおよしの姿に戻り成仏したとか蛇は現れなくなったとか。その際に用いた石は伝承により数個から64884個と大きく開きがある。やがて池が枯れ、名号石が持ち去られると周辺は災禍に見舞われるようになったため石を取り戻し塚を立てたという。「親鸞聖人念佛塚」と「毒蛇済度舊蹟」の碑がそのエピソードを伝えている。
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10/8 15:21
<親鸞聖人念仏供養塚>
ここにも親鸞が登場する。およしという女性が夫の浮気に嫉妬し池に身を投げた末、毒蛇に身を変えしばしば人に害を与えるようになった。これを鎮めるべく聖人が南無阿弥陀仏と名号を書いた石を池に投げ入れると毒蛇はおよしの姿に戻り成仏したとか蛇は現れなくなったとか。その際に用いた石は伝承により数個から64884個と大きく開きがある。やがて池が枯れ、名号石が持ち去られると周辺は災禍に見舞われるようになったため石を取り戻し塚を立てたという。「親鸞聖人念佛塚」と「毒蛇済度舊蹟」の碑がそのエピソードを伝えている。
<稲村神社>
向かいが原村と吉久保(吉ケ窪)村の氏神となる稲村神社。
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10/8 15:21
<稲村神社>
向かいが原村と吉久保(吉ケ窪)村の氏神となる稲村神社。
祭神である国常立命、素盞鳴尊、日本武尊、稲田姫命の4柱を表すかのように杉が4本に分かれている。
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10/8 15:21
祭神である国常立命、素盞鳴尊、日本武尊、稲田姫命の4柱を表すかのように杉が4本に分かれている。
境内には「合体」道祖神をはじめ多数の石仏・石祠が並ぶ。
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10/8 15:22
境内には「合体」道祖神をはじめ多数の石仏・石祠が並ぶ。
馬頭観音の数も多い。難所の笹子峠に関わるものなのか笹子川の氾濫に巻き込まれたものなのかは分からない。
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10/8 15:22
馬頭観音の数も多い。難所の笹子峠に関わるものなのか笹子川の氾濫に巻き込まれたものなのかは分からない。
ここの本殿は郡内でよく見かける華美な入母屋本殿。大屋根には絵画から飛び出したような鬼面が飾られている。
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10/8 15:23
ここの本殿は郡内でよく見かける華美な入母屋本殿。大屋根には絵画から飛び出したような鬼面が飾られている。
稲村神社の先でT字路となる。旧街道は直進するが行き止まりとなっているため折れて国道へ復帰する。
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10/8 15:25
稲村神社の先でT字路となる。旧街道は直進するが行き止まりとなっているため折れて国道へ復帰する。
<葦ヶ池碑>
中央線の吉久保ガード北にある農地の一角に先ほどの親鸞聖人が名号石を投げたという池の碑がある。池はかつては9000坪もあったという。
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10/8 15:25
<葦ヶ池碑>
中央線の吉久保ガード北にある農地の一角に先ほどの親鸞聖人が名号石を投げたという池の碑がある。池はかつては9000坪もあったという。
国道に下りて西に向かうと道は二股に分かれる。
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10/8 15:32
国道に下りて西に向かうと道は二股に分かれる。
旧道は北側の旧笹子小学校の先で消滅しているので現在は歩行者専用になっている旧笹子橋で川を渡ると次の阿弥陀海道宿に入る。
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10/8 15:34
旧道は北側の旧笹子小学校の先で消滅しているので現在は歩行者専用になっている旧笹子橋で川を渡ると次の阿弥陀海道宿に入る。
<笹一酒造>
ゴール手前で寄り道。酒遊館では次々と試飲を勧められるがいずれも美味しい。
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10/8 15:34
<笹一酒造>
ゴール手前で寄り道。酒遊館では次々と試飲を勧められるがいずれも美味しい。
長旅のご褒美に笹一吟醸ソフトクリーム。酒粕の甘みが絶妙、甘酒が苦手でなければおすすめ。
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10/8 15:46
長旅のご褒美に笹一吟醸ソフトクリーム。酒粕の甘みが絶妙、甘酒が苦手でなければおすすめ。
目星を付けていたお土産も手早く購入し笹子駅へ向かう。
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10/8 15:52
目星を付けていたお土産も手早く購入し笹子駅へ向かう。
<阿弥陀海道宿>
現在の郵便局付近が本陣跡らしいが国道に飲み込まれて街道の雰囲気は乏しい。海のない山梨に海道というのは不思議だが諸説ある。この辺りは先の葦ヶ池(吉が久保/よし窪)の沼地の一部で江戸時代には涸れていたというがなにせ9000坪もある沼地だったので街道が海道に見えたのではないというのが自分の見立てである。現在は道の字が消えて阿弥陀海の地名で「あみだかいどう」と読ませている。阿弥陀は行基上人が笹子峠に出る悪霊を鎮めるために阿弥陀如来像を彫ってこの地に安置したことが由来。
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10/8 15:53
<阿弥陀海道宿>
現在の郵便局付近が本陣跡らしいが国道に飲み込まれて街道の雰囲気は乏しい。海のない山梨に海道というのは不思議だが諸説ある。この辺りは先の葦ヶ池(吉が久保/よし窪)の沼地の一部で江戸時代には涸れていたというがなにせ9000坪もある沼地だったので街道が海道に見えたのではないというのが自分の見立てである。現在は道の字が消えて阿弥陀海の地名で「あみだかいどう」と読ませている。阿弥陀は行基上人が笹子峠に出る悪霊を鎮めるために阿弥陀如来像を彫ってこの地に安置したことが由来。
<笹子駅>
天候が今一つで大月か初狩駅で切り上げようか悩んだが、何とか笹子まで到達することができた。
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10/8 15:55
<笹子駅>
天候が今一つで大月か初狩駅で切り上げようか悩んだが、何とか笹子まで到達することができた。
笹子駅ホームから見る笹子雁ヶ腹摺山。次回はいよいよ最難関と言われる笹子峠越えになる。
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10/8 15:57
笹子駅ホームから見る笹子雁ヶ腹摺山。次回はいよいよ最難関と言われる笹子峠越えになる。
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