北岳〜間ノ岳〜両股(過去レコです)
- GPS
- 80:00
- 距離
- 22.7km
- 登り
- 2,144m
- 下り
- 1,874m
天候 | 晴れー雨―晴れ |
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過去天気図(気象庁) | 2010年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
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写真
感想
今年の夏山メイン登山に南アルプスを選んだ。白峰三山縦走、塩見岳〜北岳縦走と色々考えたが、いずれも登山口に至るまで、そして降り口からの帰りも、岐阜からでは少々交通が不便であることが判った。車で行ける行程を考えて、北岳・間ノ岳を選んだ。戸台口に車を置き、長谷村営バスにて北沢峠へ。北沢峠でバスを乗り換え、広河原まで行き、初日は白根御池小屋泊まり。翌日北岳に登り、2日目は北岳山荘泊まり。3日目に間ノ岳に登り、三ツ峰岳から両俣小屋へ下る。4日目は野呂川に沿って下り、野呂川出合からバスで北沢峠へ帰る、と云う計画を立てた。一日の歩行時間は5〜6時間で、5日目は予備日とするという大変余裕のある日程である。予約のため北岳山荘に電話を入れると、クマ除けの鈴とスプレーを持ってこいとの事で、大枚一万二千円を支払いクマ除けスプレーを購入。
2010年8月7日、まだ暗いうちに出発、東海環状道路で朝日を迎える。長谷村の戸台口の駐車場に着いた時には、バスの出発時間までしばらくあるので付近を偵察。バス停の前の駐車場は一杯で、河原の大きな駐車場に停めたが端っこ。この広い駐車場も間もなく埋め尽くされそうな勢いで、次から次へと車が入ってくる。河原からバス停に上がる梯子の近くにスペースがあるのを見つけて車を移動させる。バスは8時5分の出発であるが、バス停にはすでに行列が出来ており、7時45分にまず一台が出発。どうせ北沢峠で待たねばならないので、定刻通りの次のバスに乗り込む。満員のバス。運転手がマイク片手にハンドルを握り、周囲の景色を説明したり、ビューポイントでは止って写真を撮らせたり、長谷村営バスはなんともサービス精神が旺盛で気持ち良い。バスは定刻通り9時に北沢峠に到着。ほとんどの登山者は甲斐駒か仙丈、でも広河原行きのバス停にはテントが張られ、すでに多くのザックがベンチに付けられた番号に従って並んでいる。出発時間までまだ45分あり、ベンチに腰を降ろす。南アルプス市営バスの切符売り場のお兄ちゃん、そしてバスのうんちゃんも横柄、長谷村営バスとは大違い。ぎりぎり一杯に登山客を押し込み、定刻通りバスは出発。途中、野呂川出合で釣り客2名を乗せ、広河原へ。ほとんどの人が行ってしまってから、重い荷物をヨイショと担ぎ、ゆっくりと遮断器の下がった林道に入る。丁度10時半、雲の浮かんだ青空の下、目指す北岳は遠い。左側の稜線の鞍部、ギザギザした場所が「八本歯のコル、そこに続く大樺沢の雪渓、その右手前の尾根にこれから登る御池小屋があるのだろう。ここから小屋まで標高差およそ700m、まあ大したことは無いだろう。吊り橋の手前には、「注意。今年は残雪が多いため、左俣ルート、八本歯ルートは、冬山装備・技術がないと危険です。上部二俣は道に迷い易いので特に注意しください(まま)」と掲示されている。これはわたしの登るルートではないので大丈夫。川幅の広い野呂川にかかる吊り橋を渡り広河原山荘へ。山荘の横から登山口に入る。樹林帯の登山道で足慣らしには丁度良い緩やかな道であるが、じきに汗が流れ落ち、長袖シャツを脱ぐ。登山口から30分ほど登ると、「白根御池約3時間」の真新しい白木の標識が立てられている白根御池分岐点に出る。左は大樺沢ルート、わたしは右手の道に入る。ここから急登が始まる。岩や根っ子の段差も高い。多くの下りの人と行き違い、道をゆずりながらゆっくりと登り、1時間弱のところで第1ベンチ。ここでひと休み、コンビニで仕入れたオムスビを取り出し昼食とする。この先も、いっ時たりとも休むことの無い急登の連続、木の梯子も現れる。ザックの重さにも慣れて来て、ゆっくり登っているので、左程しんどさは感じない。シラビソにコメツガやトウヒが混じり、林はカニコウモリで占められている。1時間弱で第2ベンチ。大勢のヒトが休んでいるのを追い越してひたすら急登を登り続ける。もうそろそろ急登は終わる筈なんだが、でもまだまだ続く。やがて、「←白根御池小屋、北岳。広河原→」との標識が現れ、誰が書いたか、「急登ここで終わり」の何とも嬉しい白い文字。地図を見れば2,250mの等高線に沿った水平道が続いている。でも、登ったり下ったり、急登も現れる。ぶ〜ん、と云う音が聞こえ、そして林の向こうに小屋らしきものが垣間見え、白根御池小屋に到着。 コースタイムより1時間遅い、広河原から4時間弱の行程であった。2階建ての真新しい小屋で、「南アルプス市営 白根御池小屋」という大きな看板が下げられている。受付で、「今日は満員なので布団は2人で一枚。2階の14番タカネビランジのい任后ネ漆も朝食も4時半からです」と云われ、宿泊料5,100円、夕食代1,600円、朝食代1,100円、お弁当代1,100円、計8,900円を払う。わたしが何故こんな値段を覚えているかと云うと、きちっと印字されたレシートが財布の中に入っていたからである。タカネビランジは8畳程の広さで、布団が2列に敷き詰められ、すでに10人以上の人が坐ったり寝てたりしている。わたしは入口から二つ目の布団であるが、一つ目の布団は折りたためられてあと2人が増えそうな様子である。2列の布団を敷くには狭すぎ、敷布団は頭側(壁側)が折られて枕代わりに。その分短くなった布団では、足を伸ばして寝るのは無理。反対側の壁には荷物置き場の棚があるが、こちら側には無く、ザックを廊下に置く。わたしは廊下で裸になり、汗を拭き、シャツを替える。水は無料で飲み放題、紙の流せる水洗トイレと云うのも良い。チョッキとタオルを乾燥室にかけ、外へ出て石の上に座って生ビール。ベンチ、テーブルは比較的高齢者で占められ、小屋の前のテンバには色とりどりのテントが並び、若者たちの明るい声が溢れだしている。それにしてもあんな大きなテントを担がされる人は大変だろうな。ここは標高2,200m、ダウンを着ていて丁度心地良く、持参の柿の種を食べながらひと時を過ごす。4時半前から夕食が始まる。おかずが並び、ご飯が美味しい。持参の「三岳」をお湯割りにして何杯もお代わり。ごはんもお代わり。良い気持ちになって1階の大部屋に横になり、野の花のカラー図鑑を眺めていると睡魔が襲ってくる。部屋に戻ると入口の布団には住人はいず、ザックをここに持ち込んで早々と布団に入る。窓は開けっぱなし、でも布団を被れば丁度良い。うつらうつらと夜が過ぎていった。
ゴソゴソと喧しくなり、目を覚ますと4時を回っていた。トイレ、歯磨きを済ませて食堂へ行くと、満員かと思いきやすぐに入いれて朝食にありつく。塩ジャケ、だし巻き、ひじき、海苔、梅干しとおかずは豊富。美味しいご飯とみそ汁をお代わりする。昼食用のお弁当を受け取って部屋に戻ると、ほとんどの人はもう出発していて、ガランとした部屋に荷物を拡げてゆっくりと仕度を整える。小屋の宿泊人はほとんど出発したようだが、テンバでは若者たちがテントをたたんでいる最中。小屋泊まりとテン泊のこの違いは何か? 答えは簡単。小屋泊まりは中高年が多く早く目が覚め、テン泊は若者が多く、夜も遅いので朝も遅い。とは云えまだ5時半を回ったばかり。空は快晴とまではいかないが、北岳がくっきりと頭をのぞかせている。小屋のすぐ先に小さな池、これが白根御池。そして「二俣」と「肩の小屋」の分岐があり、5時40分、右手の「肩の小屋」への道に入る。見上げれば、ず〜っと続く登山道、そこを登っている人の姿が点々と見える。「草すべり」、その名に違わずお花畑の中の急な道で、すぐに息が切れる。3人組の高齢女性、そのうちの一人が離れてゆっくり登っているのを追い越す。汗が流れ始め長袖シャツを脱ぐ。その間に先程のおばちゃんが追い越して行く。センジュガンピ、タカネグンナイフウロ、シナノキンバイ、エゾシオガマと色とりどりの花々が迎えて呉れる。そして再びおばちゃんを追い抜く。おばちゃん、「今日は30人に抜かれそうだ」。わたし、「30人じゃすまんでしょう」。振り返ると鳳凰三山が連なっているが、オリベスクは見当たらず、向こうの方がまだまだ高い。白いオオカサモチと黄色いマルバタケブキ、いずれも大型の花、これらが入り混じって群落をなしている。急登にも慣れ、心臓も落ち着き、花々をめでながらゆっくりゆっくり休みながら登る。その間にまたまたあのおばちゃんが追い抜いていく。このおばちゃん、何やらブツクサ独りごとを云いながら登っているが、こんな人を一人にしておいて良いのかなと心配になる。このおばちゃんを3回追い抜いて、その仲間のおばちゃんも追い抜いてからはもう出合う事は無かった。シナノオトギリ、紅や白のオニシモツケ、イブキトラノオ、コバノコゴメグサ、コウメバチソウ、次から次へと花々が現れ、写真を撮るのに忙しい。ここら辺りに咲くトリカブトは、キタダケトリカブトではないだろう。キタダケトリカブトは標高3000m辺りの風の強い場所で咲くので背が低いと云うが、これはまだ高い。急坂を登る事2時間、二俣(大樺沢)からの道と合流。「肩の小屋、約50分」とある。ここでザックを降ろしてひと休み。じっとしていると寒くなり、すぐに出発。鳳凰三山が同じ程度の高さとなり、池山吊尾根の上に富士山の頭が出始める。ハクサンチドリのお出迎え、そして小太郎尾根分岐点に到着。白い頭の甲斐駒、その向こうに八ヶ岳連峰、そして仙丈ヶ岳が大きなずうたいを横たえている。北岳に向かって稜線が伸び、いよいよ天空の稜線歩きだ。見渡す限り遮るものの無い、岩の重なった稜線を気分良く登る。池山吊尾根は低くなり、裾野を一杯拡げた富士が全容を現す。そして多彩な高山植物のお出迎え。これ程沢山のチシマギキョウを見るのは始めて。岩にへばりついて一斉に同じ方向を向いている群落。バラバラに好き勝手な方向を向いている群落。強風に耐えかねたのか、花を地面に横たえているものもいる。ヨツバシオガマは今が盛りと咲き誇り、トウヤクリンドウはまだ寒いのか、ツボミのまま。岩陰にイワヒバリがピョンピョン跳ねている。大分近くなった北岳に向かって稜線が伸びているが、肩の小屋の姿は見えない。肩の小屋は小山の向こう、ひょっこりと現れる。「北岳の肩 3000m」、。小屋に入りコーヒーを注文すると、紙カップに入ったコーヒーが運ばれる。しばし小屋の中で休んでから出発。まだ9時半前、このままでは今日の宿泊先の北岳山荘に早く着き過ぎる。花の写真を撮りながらゆっくりゆっくり登る。ハハコヨモギ、ハクサンイチゲ、タカネツメクサ、ヒメコゴメグサ、イワベンケイ、シナノキンバイのようだが葉っぱが違うからこれはミヤマキンバイ? 多彩な高山植物があっちにもこっちにも。ホシガラスがハイマツの中を飛び回る。振り返れば肩の小屋の青い屋根が下に見える。両俣小屋からの道を合わせる場所でひと休み。ミヤママンネングサ、シコタンソウと艶やかな花々が現れる。山頂まではあとひと登り、岩稜に登山道が続き、その行きつく先の頂上には沢山の人がいるのが見える。そしてわたしも日本第2の高峰、北岳山頂に到着。10時23分、白根御池小屋から4時間43分のなが〜い登りであった。大展望、甲斐駒、仙丈を見下ろす。鳳凰三山、地蔵ガ岳のオリベスクもはっきり見える。明日登る予定の間ノ岳、その先にちらっと見える塩見岳。遠くに中央アルプスが連なり、振り向けば富士山。「南アルプス国立公園 北岳山頂 3,193m」という看板があり、その上に「北岳 3,192m」と書かれた古い板がある。「3,139m」と書かれた部分は比較的新しいプレートで、どうも書き改められたようである。別に立っている「北岳 山梨百名山」の柱には、「北岳 3,139m」という白いプレートが付けられている。帰ってから調べて見ると、三角点のある場所は3、192.4mだが、三角点より高い場所があるという指摘を受け、2004年11月に国土地理院が計測し直したところ、三角点から南南西24mの岩盤に三角点より80cm高い場所があり、3,193.2mと正式に改められたとの事である。山頂は吹きっさらしで、じっとしていると寒い。適当な岩陰を見つけ、坐り込む。ザックから弁当を取り出し昼食とする。3000mの頂きで食べる、白根御池小屋の作ってくれた弁当は美味い。南アルプスの食事はまずいと云う評判だが、今のところそんな事は無い。食べ終えると眠気を催し、岩の上に横になってタオルで顔を覆い、昼寝をする。頭の上でズルッと滑る音がする。見上げるとヘルメットをかぶり、ロープを肩に掛け、カラビナをジャラジャラぶら下げている若者達がいる。北岳バットレスをクライミングして来たと思われるが、登り切った所で滑っているのが可笑しい。北岳バットレスの大岸壁は硬いチャートや粘板岩からなるので、ロッククライミングも出来るが、今わたし達がいる場所には石灰岩が露出している。11時下山開始。間ノ岳へと続く稜線上の鞍部に赤い屋根の北岳山荘が見える。切り立った稜線、左は大樺沢左俣へ、右は野呂川左俣沢へと落ち込んでいる。鎖が付いている急坂であるが、花々を眺めながら、極めてゆっくり、のんびり。20分もしないうちに吊尾根分岐点に降り立つ。「北岳山荘(転落注意) 50分」と、大分余裕を持って記されている。「八本歯のコル」への道を分け、そのまま真っ直ぐ下る。登って来る女性2人組に、「何処から来たのか」と尋ねると、「八本歯のコルからお花畑を巡ってきた」と云う。そんなコースがあるのなら、時間はたっぷりあるし、天候も持ちそうなのでそちらへ行けば良かったかな。でもここでもお花は一杯。コバノコゴメグサ(ヒメコゴメグサ)、ヒメクモマグサ、タカネツメクサ、ミヤマミミナグサ、イワツメグサ、タケネシオガマ、ハハコヨモギ、イブイジャコウソウ、ウスユキソウ、ミヤマオダマキ、すでに綿毛のチングルマ、それにしてもチシマギキョウの多さには驚きだ。遥か下の野呂川左俣沢に向かって、急峻な岩ゴロゴロの山肌がカール状に広がっている。踏み外せば一辺に谷底まで直行だ。そんな所で、サルの群れが駈けまわている。鎖に掴まり、木の梯子を下ると岩稜は広くなり、花の写真を撮り、暇を潰しながらゆっくり下って、12時45分、北岳山荘に到着。玄関に入るとそこは風防室で、右側に洗面台があり、水は1L100円と書かれている。左手のテーブルの上には宿泊申し込み書があり、ここで記入し受付に持って行くようになっている。壁の黒板には、「本日は一つの布団に一名様のご案内となります」と、チョークで書かれている。ラッキー。北岳山荘は混雑することで有名な小屋で、一つの布団に4名と云う記録があるという。どれだけ混むのか心配だったがまずはひと安心。風防室の戸を開けると土間になっていて、右手に受付がある。数人が並んで受付を待っており、わたしも並ぶ。受付の壁には、「両俣小屋周辺でクマが出没。大樺沢でクマの糞あり」と書かれている。「クマが出たのはいつか?」と聞くと、「7月の終わり」、「なら良いか」。部屋は2階の「中白根」のロフトで、イの1。荷物はロフト階段の下に置いておけと云われ、料金1万円を払い、水1Lの引換券を貰う。食事代は白根御池小屋と同じだが、素泊まり代が100円高い。中白根のロフトにかかる階段は垂直、おまけに足を掛けると痛くって上りにくい。6人分の布団が並び、イの1は一番奥。天井は低く、やっと坐る事が出来る程度なので、這って行かねばならない。身体を拭いて下着を替える。二人連れのおじさんが入ってきた。二人連れの話す言葉は熊本弁のよう。着替えを終えダウンを着て、缶ビールを持って外に出て、北岳を眺めながらしばし時を過ごす。小屋の前には昭和大学の診療所があり、横にはバイオ式トイレの立派な建物がある。バイオ式トイレとはどんなものかと中に入って覗いてみると、どこのトイレよりも臭くって、ものすごく汚く、とても使う気になれない。施設は立派でも、それを管理する人がいないとこんな状況。夕食まで時間はたっぷりあるので、部屋に帰ってひと眠りする。お父さんと中学生と思われるお嬢さんの親子連れが入って来てロフトは満室となる。4時半から夕食。長いテーブルに座ると、わたしの目の前にお櫃とみそ汁のお鍋がある。みんなのみそ汁をすくって配る。ご飯もおかずもまあまあで、どちらもお代わり。500mlのペットボトルのミネラルウォーター、一本400円也の「南アルプスの水」を買い、贅沢な歯磨き。部屋に戻って親子連れと話しをする。「今日はどこから来たのか」と聞くと、「ちょっとマニアックな道で、両俣小屋から間ノ岳に登ってきた」と云う。ふ〜ん、両俣小屋からの道はマニアックなのか。お譲ちゃんが、「間ノ岳でライチョウを見た」と、デジカメを見せて呉れる。画面に大きくライチョウの姿が写っている所を見ると、ほんの近くで見たらしい。熊本の二人連れは明日4時には出発すると云う。
その夜は消灯前から眠りに着き、夜間屋根を叩く雨音に眠りが妨げられるも、昨晩に比べれば良く眠った。階下の物音で目が覚める。熊本の二人連れも起き出し、時計を見ると4時を回っている。4時に出発すると云っていたが良いのかな?とは思いつつ、もう少し布団の中にうずくまる。隣りのお父さんも起きたのでわたしも起きる。5時から朝食が始まるが、もうすでに出発した人も多く、食堂は待たずに入れる。ご飯とみそ汁をお代わりし、昼食用の弁当を貰って、水を1L補給。ガランとなった中白根でザックを広げ、詰め直す。長袖シャツはザックに納め、Tシャツの上にカッパを着込み、雨用の帽子をかむり、ザックカバーを着け、6時25分、北岳山荘を後にする。雨は上がっているが、カッパを着ていて丁度良い加減である。ここは日本で一番高い稜線歩き。稜線上には中白根に向かう登山道が続いている。右側の斜面はハイマツで覆われているが、左側は大岩がゴロゴロする斜面で、野呂川の右俣沢に落ち込んでいる。頭に薄い雲を冠った黒い富士山が、今日もまた姿を見せる。50分程で中白根山頂に到着。古い柱に彫られた文字は、「中白根 3,052m」と読める。どの地図を見ても3,055mと書かれているが、北岳と同様、少しだが伸びたようである。登ってきた方向を振り返れば、北岳山荘の赤い屋根がポツリと見え、その先には真っ直ぐに伸びる稜線、登りついた頂きは北岳。山頂から右に池山吊尾根、左に中白峰沢の頭への尾根と二つの尾根を広げ、そしてその背後に仙丈、甲斐駒、鳳凰三山を控え、北岳は悠然と佇んでいる。行く手には、左に大きく弧を描いて稜線が続き、その先にでっかい間ノ岳がこれまたどっしりと佇む。中央アルプスの右側奥には、乗鞍岳、そして穂高の峰々が浮き、尖った槍の穂先も見える。広い中白根の頂上、その一角を動物が歩いている。白い身体に黒い顔、イタチなのか、テンなのか、はたまたオコジョなのか。いずれにせよライチョウさんには迷惑な話しだ。ハイマツの中、そのライチョウさんを探しながら進むが、昨日のお譲ちゃんのようにはなかなか見つからない。中白根から下った辺りで、ようやくライチョウを発見。中白根の稜線に、大きなライチョウのシルエットが見え、しばらくすると子供のライチョウも現れる。写真を撮るには遠すぎる。大岩の重なった登り、緑色の丸印に導かれて慎重に登る。下は断崖、気を緩める事は出来ない。サブザックを担いで間ノ岳から降りてくる人達は、北岳山荘からのピストン。岩場での行き交いには注意を要する。難所の岩場を過ぎると、なだらかな稜線となり、もう間ノ岳の頂上は目の前。細沢カールが雲海に落ち込み、富士山が雲に隠れている。8時53分、日本第4の高峰、間ノ岳山頂3,189.3mに登り立つ。断トツの富士山を除けば、第2位の北岳より4m、第3位の奥穂高岳より1m低いだけで左程の差は無く、どんぐりの背比べであるが第4位は第4位。「どんぐりの背比べ? おっと、それを云うなら、「五十歩百歩」、う〜んこれも違うな、これはやっぱり、「いずれ劣らぬツワモノ」である。山頂には結構人も多く、そのうち団体さんもやって来る。雨がポツポツ降り出して、団体さんはなんと透明ビニールのカッパやポンチョを着込む。おいおい、こんな装備でこんな所にやって来て良いのか。北岳山荘に戻る人、農鳥岳へ向かう人。三峰岳(みぶだけ)方面に向かう人はわたしだけ。最初は気楽な稜線下りだが、10分程で鎖の岩場が現れる。下を見れば岩ごろごろの急斜面が谷底へと続いている。ここは慎重に、足場を定め、お尻をつきながら下る。この急な岩場を降り、ここから先はやせた岩稜、ガレ場の尾根を下り三峰岳を目指す。ガスがかかっているが、大きな緑色の丸印が遠くからでも見る事が出来、道に迷う事は無い。誰にも会う事のない静かな稜線、アップダウンを繰り返し、これを登れば三峰岳頂上と思っていると古ぼけた標識がある。左は塩見、右は仙丈と読める。どうやら仙塩尾根に着いたらしい。三峰岳の頂上に登るのは止して、仙丈方面の道に入る。ガスの中、10m程度の見通しはあるので迷う事はまず無いだろうと思うが、それにしても緑の丸印はおろか、何の案内も印も無くなってしまった。岩場あり、鎖ありと、結構な急降下である。幾つものピークを登ったり下ったり。ハイマツが道を覆い、蹴つまずかないよう注意しながら進む。珍しく登って来る人と行き違う。その後も二人と出合ったが、いずれも単独行の若い男性である。北岳から間ノ岳までの道は賑やかであったが、こんな道を登る人はちょっと偏屈もん。おっと、わたしを除いての話しであるが。時々ガスが晴れると、野呂川の右俣沢を挟んで北岳から間ノ岳への稜線が見える。砂礫のやせ尾根の急降下、その稜線も徐々に高くなり、地を這っていたハイマツの背も高くなり、灌木帯に入る。ハイマツも身の丈程の高さになってハイマツとは云えなくなると、そしてついには、ダケカンバやシラビソ、トウヒ、コメツガなどが混じる樹林帯の道となる。林床は大きなシダの葉っぱで埋め尽くされている。両俣小屋へは仙塩尾根の野呂川越から分かれて下るのだが、地図には野呂川越までは三峰岳から2時間と記されている。それ程ゆっくりしたペースでは無いのでもう着いても良さそうなのに、一向に野呂川越は現れない。ひょっとして見過ごしてしまい、仙丈岳に向かっているのでは無いかと心配になる。時々登りになるが、でもまだ下りが主体なのでまだ大丈夫だろうと先に進む。三峰岳から3時間は経った頃、「野呂川越まで700m」という標識があり、通り過ぎていない事が判ってほっとする。それにしても所要時間はいい加減だし、案内の少ない道である。三峰岳の分岐からおよそ3時間20分程かかって野呂川越に到着。そこには二人連れの男が休んでいて、「どこから来たんですか?」と尋ねると、「間ノ岳から来て、今日は両俣小屋に泊まる」と云う。じゃ、わたしと同じだ。「明日はまたここまで戻り、仙丈に登って仙丈小屋に泊まる。次の日に甲斐駒に登り黒戸尾根を下って帰る」と、なんとも凄い計画である。彼らは先に下りて行き、わたしは倒木に腰をおろして昼食とする。そろそろ1時近くになり腹も減って、北岳山荘の弁当が美味い。もうここまで来れば安心と、気持ちも落ち着いてゆっくり休む。ここから仙塩尾根から分かれて両俣小屋まで、およそ40分の急坂の下りである。急坂とは云っても、三峰岳からの急坂を降りて来たものにとっては左程のものとは感じられない。ただ、やたらと倒木が多く、これが道を塞いでいる。ちょっと高めの倒木はくぐって行くことになるが、ザックが引っ掛かってこれまた大変。川の流れの音が聞こえ始め、段々と近づいてきて野呂川右俣沢に降り立つ。鈴をジャラジャラ鳴らし、クマ除けスプレーを頼りに、クマさんいないかと進む。流れに沿って行くと左俣沢と合流し、北岳への目印が現れると間もなく両俣小屋に到着。13時50分、今朝北岳山荘を出てからおよそ7時間半の行程であった。
両俣は北岳の西、野呂川の左右の俣の出合うところであるが、北岳の東の大樺沢にも左右の俣があり、これが出合うところは二俣と呼ばれている。ここでひと考察。考察の _晋痢股ではなく俣なのか:俣は日本で作られた漢字で、講談社の大漢和辞典には、「俟」・「俁」の転じたものか、と記されているだけでその意味は載っていない。いずれにせよ股とは全く無縁の字であるが、インターネットのウイクショナリーによれば、「道や川が2方向に分岐するところ」とされている。「また」は股が本当であるが、その意は、「またぐら」とか「もも」であんまり露出するべきものでは無く、これを「俣」としたのは日本人の奥ゆかしさの表れか。ウイクショナリーの「分岐するところ」に加えて、「分岐した道や川」と加えるべきであろう。また、「2方向」に限る必要も無く、「これは省くべきである。新穂高の蒲田川、剣岳の長次郎谷、薬師沢など、調べてみると左右の俣は一杯ある。そして三俣蓮華、北の俣岳など、山の名前の「また」も俣である。考察の◆,匹舛蕕右でどちらが左なのか:川の左右の岸は、上流から見て右が右岸、左が左岸と云う。これは川の流れに従ったもので納得されるだろう。俣は下流から見て右が右俣、左が左俣となる。俣は川が二つに分かれているところという意味なので、これは川の流れに逆らって付けられるというのも納得。でもちょっとややこしい。考察の 「二俣」と「両俣」の違い:この場合、いずれの俣も、「分岐した川」の意味で、それが合流するところが二俣であり、両俣と呼んでいるようである。「ふたまた」は、「先が二つにわかれている道(三省堂新小辞林)」で、まさに左右の合流部をさすが、「りょうまた」は、両方のまたであり、左右それぞれのまたをさし、合流部の意味では無い。すなわち、「両俣小屋」は左俣沢と右俣沢、ふたつの沢の小屋という意味である。仙塩尾根から間ノ岳・塩見に向かう道と、中白峰沢ノ頭から北岳に向かう二つの道を持つ両俣小屋である。
両俣小屋は水が豊富で、外の洗面所で先程野呂川越であった二人組が裸になってタオルでゴシゴシ洗ってている。小屋に入って声をかけるも誰も出て来ない。土間の奥の食堂を覗いても誰もいない。土間に一枚の紙切れがあり、「台風が発生したので帰れる方は帰ってください。ちょっと見周りに行ってきます。1時には戻ります」と書いてある。出発する時まで、台風のたの字も聞いた事がないのに、本当? どうして帰らなくちゃいけないんだ。もう2時になっているんだけど小屋主は帰ってこないし、一体どうなってるんだ。2人組の男がやってきて話しをすると、これが熊本弁。はたと思い出す。そうだ、昨晩北岳山荘で一緒の部屋にいた二人組だ。向こうも思い出し、話しがはずむ。北岳山荘の同室には6人いたが、親子二人はこの両俣小屋から登ってきたと云っていた。なんと6人全員が両俣小屋にきたわけである。仙塩尾根で出合ったのはほんの数人、この静かな両俣小屋、あの親子も云っていた、「マニアックな道」。これこそ奇遇である。そんな話しをしていると、首から前掛けをぶら下げ、頭に手ぬぐいを巻き、丸い眼鏡をはめたおばちゃんがぬ〜っと入って来た。どうやらこれがこの小屋の主らしい。早速台風情報を聞くと、長崎県の向こうにいると云う。「明日はどうするのか?」と聞くので、「明日は野呂川出合からバスで帰る」と云うと、「それなら良い」。2階に上がって身体を拭き、着替えをする。小屋主のおばちゃんに缶ビールを頼むと、「何本?」と聞くので、「一本」。おばちゃんが外へ出て、冷たい水に浸けてある缶ビールを一本持ってくる。「北岳山荘に電話をしたらクマ除けスプレーを持ってこいと云われたので持ってきた」と話すと、「クマ除けスプレーなんていらない。鈴だけで充分」と云う。なんだかとっつきにくいおばちゃんである。単独行の若い男性が入って来て、「今日泊めて呉れ」と云うと、「どこから来たの?」、「北沢峠です」。おばちゃんは急に怒り出し、「台風の時に両俣小屋には云っちゃいけないと云われなかったの?」。なんとか泊めてもらえることにはなったが、ややこしそうなおばちゃんである。持参のつまみを食堂に持ち込んで、予定通り行程が運んだ事に乾杯。おばちゃんとも話しをすると、左程の変人でも無さそう。何十年か前の台風の話しをし、一冊の古ぼけた本を渡す。「41人の嵐−1982年台風10号の一記録」という題で、著者は桂木優と書かれている。この本を持って小屋の外に出て、小屋主手製のテーブルに座る。外人さんが大きなザックを担いで小屋に入る。一人は白人、もう一人は黒人で、どちらも男性。日本語が上手で、とくに白人さんは日本人顔負け。仙丈から来たと云っている。どうやら本日の宿泊者はこの7人だけのようである。標高2000mの清々しい空気の中、明るい陽を浴び、「41人の嵐」を声を出して読む。両俣小屋の周囲や小屋の内部の様子が細かく描写されており、静かでおだやかな小屋であることから物語は始まる。小屋番は星 美知子と云う若いお姉さんで、目の前にいる主の若き日の姿である。星さんが小屋番になって2年目の1982年、台風10号で目の前の野呂川が一気に濁流と化し、テンパクの大学生を小屋に避難させる頃から話しは怪しくなる。土石流で小屋が壊され、小屋番が彼らを連れて裏山に避難する。 さてこの先どうなるかという時に夕食が始まる。これが山小屋の夕食かとびっくりする程の豪華な食べ物で美味しい。小屋には3匹ネコがいるそうで、そのうちの若い雄ネコがわたしの足に身体を摺り寄せてくる。持参の焼酎「三岳」のお湯割りでご機嫌になり、布団にもぐり込んでうつらうつらしていると男が一人入って来る。どうやら馴染みの釣り客らしく、食堂に入って星さんと話しをしている。宿泊客は1人増えたが、定員30人の小屋に8人だけ。外人さん二人は2階へ、一階には6人。お盆前の夏山シーズン最盛期というのに、ここは別世界。8時に消灯だが、「41人の嵐」を置見続ける。一番最後に、著者の桂木優というのは星さんのペンネームであると書いてある。星さんにそう云うと、「わたしが、わたしがでは出しゃばりになるので、小屋番と呼ぶことにした。著者の名前もペンネームにした」と話す。わたしが、「小説として良く構成がとれている」と云うと、「うんうん」と嬉しそう。朝食も豪華、ご飯もお味噌汁もお代わりし腹いっぱいとなり、部屋に戻って荷物をザックに詰め込む。騒がしい筈なのだが釣り人はゴーゴーとイビキをかいて我関せず。うらやましい人である。野呂川出合のバスは9時15分。ここから林道を歩いて2時間10分、まだまだ時間はあるので野呂川に下りて朝の散歩。星さんを呼び出し、玄関で並んで記念撮影。星さんが、「台風が来るまでは小屋の前は一段と低く、野呂川には中州もあった」と、小説の中にあった昔の小屋周辺の状況を説明してくれる。昨日最初に会った時の印象とjは全く違って、登山者の安全を第一にする心根の優しいおばちゃんである。星さんには「41人の嵐」の他にもう一冊著書がある。「両俣龍胆(りんどう)の記」(01年発行)、そのあとがきに、「野呂川のほとりに暮らして20シーズンが過ぎた。早いものだ。1年目は無我夢中で終わり、2年目は台風10号事件に出会い吃驚仰天、3年目も台風5号が富士山の近くに丸一日いて、一人裏山のテントの中で3日間お経を唱えていた。小屋の入口まで抉られ、北沢峠の久保田さんと竹沢さんに「牛」を作ってもらった。4年目は「41人の嵐」を発行し、5年目は萱森君が死んだ。6年目はチェーンソウを買い、7年目、発電機を買い、ティーピーを建てた。8年目、食堂、台所を作り、9年目マヤ柄Tシャツとヤマメバンダナを作り、10年目は十周年記念で看板と同じ文字の手ぬぐいを作った。11年目はアマチュア無線の試験を受け、12年目に無線機を買い、13年目にヤマネバンダナを作った。14年目は丸木橋を4か所造ったが、その年の台風で全て流され、15年目には、野呂川を割ったる丸木橋を小屋の前に移し、秋にはテント場の整備があった。16年目には、インターハイがあって、水道用のタンクが森の中に、水道がトイレの前についた。17年目には、アルバトロス兇留藾娉颪あり、18年目には、小屋の中に水道が引かれ、19年目、湯沸かし器がつき、そして20年目、鉄梯子が二つ外され、階段がついた。『両俣小屋はいつも変わらないね』と言われながらも、少しずつ変化しているようだ」と記している。あんまり立派な小屋はここでは似合わ無い。いつまでもこの雰囲気を残して欲しいものである。平成17年 の南アルプス市議会第1回定例会(3月)で、南アルプス市長石川 豊が次のように答弁している。「山小屋の施設でありますが、6つの施設がありますが、昭和53年度建築以前の両俣小屋と、昭和5年建築の北沢長衛小屋については、老朽化が進んでおりまして、今後、補強を行う必要があると考えております」。5年経った今も改築されていない所を見ると、この市長答弁は忘れ去られたものと思われ、めでたしめでたし。
ちょっと早目ではあるが6時過ぎ、林の間から頭を見せている間ノ岳に別れを告げ、両俣小屋を後にする。野呂川沿いの道は砕石場で終わり、あとは林道歩きとなる。時間はたっぷりあるのでゆっくり進む。当事者が目の前にいて、舞台となる小屋の中で読んだ本は、家で読むのとはひと味違う。小屋番が学生達を引き連れて、仙塩尾根から仙丈を越え、北沢峠の長衛小屋に辿りつくまでの壮絶な脱出劇の様子を生々しく伝えている。辿るこの林道、両俣小屋のためにあるような道であるが、治山工事が進められ、どう見ても必要が無い見通しの良い場所にもカーブミラーが取り付けられている。無駄な工事の象徴である。二人連れの釣り師、しばらくしてザックを担いだ若いカップルに出会う。この長い林道で行き違ったのはこの4人だけであるが、何台もの工事用の車がやって来る。両俣小屋を出てから2時間半は経ち、そろそろ南アルプス林道に出ても良さそうなのに、一向にその気配は無い。道路工事をしているアンちゃんに尋ねると、「2km程先だ」と云う。「すぐ先ですよ」、と云う答を期待していたのだが、まだ2kmも・・・。時計を見ると8時45分、2km歩くには30分かかる。バスの時間にはぎりぎり、慌てて歩を早める。たっぷり時間があると思っていたのに、これはどうした事か。バスに間に合わなければ北沢峠まで歩かなければならなくなる。アンちゃんは2kmと云ったが、それはアンちゃんの感覚で正確な距離では無い。 2km以上ならばこれはもう間に合わない、どうか2km以下であって呉れと願いながら、緩い下りを足早に進む。15分程で行くと橋が見え、どうやらあれは北沢橋、あそこが野呂川出合に違いないと胸をなでおろす。9時3分、両俣小屋から3時間もかかってしまったが、何とか無事バスの時間に間に合った。バス停には、「乗車券をお求めのうえ、早めにお待ちください」と書かれているが、勿論切符売り場なんてあるわけが無い。広河原方面から車が一台やってきて、わたし達の前に停まる。おっちゃんが顔を出し、「どちらへ行くんですか?」と云うので、「北沢峠」と答えると、「切符はお持ちですか?」。この車はバスの先導車で、どうやら切符も売っているらしい。切符を買うと、「バスが2台来るのでどれでも良いから乗って下さい」。すぐ後に誰も乗っていないバスがやってきて、貸し切りバスとなる。北沢峠でバスを降り、長谷村営バスの戸台口行きの停留所のテントにザックを並べ、出発までまだ30分以上あるので、長衛小屋のベンチに座り缶ビールを空ける。バスは予定通り10時に出発し、予定通り戸台口に帰り着いた。仙流荘で、4日分の染みついた汗を流した。
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