西国街道(さいごくかいどう)
最終更新:2026-02-09 06:58 - silverfrost
基本情報
京都(東寺口)から大山崎、高槻等、淀川右岸を通り、大坂を経ないで西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路。
現代は、京都と下関を結ぶ山陽道として存在するこの道を、広島藩では「西国街道」と呼んでいた。五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)に次ぐ重要な街道で、参勤交代や多くの交易に利用されていた。
現代は、京都と下関を結ぶ山陽道として存在するこの道を、広島藩では「西国街道」と呼んでいた。五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)に次ぐ重要な街道で、参勤交代や多くの交易に利用されていた。
山の解説 - [出典:Wikipedia]
西国街道(さいごく〈さいこく・せいごく・せいこく〉かいどう)は、江戸時代における街道の1つであり、近世山陽道の別名である。京都から下関、あるいは九州の太宰府までの経路で、律令時代に大路として整備された「山陽道」とほぼ一致する。狭義の西国街道として、同街道のうち京都 - 西宮までの区間(山崎通。なお、西国路(さいごく〈さいこく・せいごく・せいこく〉じ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる。
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたともいえる。街道には宿場(宿駅)が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。
江戸時代の道路として、当時、西国街道(または西国往還)とも呼ばれた山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から赤間関(あかまがせき:現在の下関市)に至る道として再整備されたものである。幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇往還(脇街道)に位置付けられることとなった。この街道は、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路でもあった。これらのことは寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635年)参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。
なお、呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃まで前述の京都 - 西宮間は山崎街道(唐街道と山崎通り)、そして西宮 - 下関間を狭義の西国街道(山陽道 などと呼称される。
特に長州藩は整備に力を注いでおり、同藩が慶安2年(1649年)に幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30か所の馬継ぎを設置したことが記されている。






